誰も、僕の言葉を信じてくれない。

 僕が、Aさんといい空気になっていたとして、それを、Bくんに邪魔をされた。結局、AさんはCくんと付き合った、という出来事があったとする(もしも、の話です)。「いい空気」というのは僕の主観なので、それを証明することはできない。証明することはできないが、「間違えてなければ付き合えたんだよなぁ」と、僕が愚痴を溢したとする。そうすると「気のせいですよ」とか、「向こうはそんなつもりなかったんですよ」と、返ってくる。酷いときは、「ぬいぺにだよ」と言われたこともある。それは、Bくんの話なのに。そこでムキになって、そんなことはない、とか「~~って理由があると思う」と、僕が説明すると、一方的な片思いを正当化する、認知の歪んだヤベー奴扱いされる。

 なんで、誰も僕の言葉を信じてくれないんだろうか。信じなくてもいいから、可能性としてありうるかも、くらいのところで残してくれないのだろうか。僕が男だから、「歪み」という性質を押し付けやすいのだろうか。僕の押しが弱いから、罪を全部なすり付けて楽をしたいのだろうか。

 仮に真実が明らかになって、僕の言ってることが正しいとわかって、皆が謝ったとしても、もう、誰も信じたくない。

 全ての人間は、死んでしまえばいいのに。

 グッドウィル・ハンティングという映画がある。色々と鼻につくところもあるが、いい映画だ。天才的な数学の才能を与えられた主人公ウィルが、育ちの悪さゆえ自分の才能を自覚しつつも真正面から向き合えない、という話だ。

 私は、ずっと自分のことをカスだと思っていた。中高は男子校でスクールカースト最底辺、家庭は家庭で居場所がない。勉強をしてこなかったので、自分は頭が悪いと思っていた。

 20代半ばで大学に入学し、30が見えてこようかというところで休学をし、状況が変わった。

 私のことを、すごいすごいと言ってくれる後輩が現れた。彼曰く、私は天才らしい。最初は「ありがとう」とテキトーに流していたが、確かに他人に通じない話が、彼には通じる。どうやら、私は自分を理解してもらえる環境にいなかったらしいことに、徐々に気づいていった。その後、勉強をした私は、確かに学問的な力が伸びた。

 しかし、情報として、「天才である」という情報を持っていても、自己認識は「カス」のままなので、改めて自覚すると居心地が悪い。自分が気持ち悪くなってしまう。

 平野紫耀は、何千何万という人たちにキャーキャー言われて、死にたくならないのだろうか。あるいは謙虚な心を持ち続けられるのだろうか。

 多分、平野は、自分のやっていることが他人に還元できているという自覚があるのだろうな。ファンを喜ばせたり、CMに出演して売り上げを伸ばしたりなど、自分の才能を受け入れた上で、ひとり占めしないですんでいるから、自尊心を安定させていられるのだと思う(安定してるか知らんけど)。

 私は、他人に褒められても、それを自覚できない。私は頑固なので、「カス」の自己認識を譲ることができない。歳を取って、色々な引き出しだけは増えたので、また、年下の学生に囲まれる環境に長くいたので、褒められる機会が格段に増えた。しかし、微笑みながら「ありがとう」と言って、それを受け取ったフリをすることしかできない。あるいは、見せびらかして嫌な奴になるという優越感でしか、気持ち悪さを解決できない。

 

核心に迫る話のはずなのに、めちゃくちゃ気持ち悪くなってしまって、まとまらない。

 

めも、

他人に還元、

「天才」も「顔がいい」も、本質ではない、本質ではないものを愛されている気持ち悪さ

優しさとは、共感

共感とは、シェア

日常をシェア、感情をシェア

 

シェアの経験をしたかった 僕を許して

サイコパスイッチ

 恐怖を感じないことがある。怒鳴られている時や、他人に陰口を叩かれている現場に遭遇した時、人前で発表する時なんかに、スイッチが入る。板についた作り笑いを浮かべ、その場の行動の最適解を考え、自分の感情と行動を切り離せる。

 先ほど、アルバイトの面接を受けてきた。これまでの経歴や現在の生活について聞かれ、テキトーに誤魔化しながら応答をした。途中から、店長の人の目の奥から、うすら笑いを感じるようになった。恐らく、私の受け答えの嘘を見抜かれた。作り笑いも、感じのいい挨拶も、ハリボテなのが、見抜かれた。

 優しさを思い出せない。些細なことで、他人と口論してしまう。物に当たって壊してしまう。去年、アルバイト先のお局にいびられて、キレてバケツの汚水をぶっかけて飛んだ。明らかに、以前の人格と変わってしまった感じがある。病院に相談しても、なあなあに流されてしまう。

 本当は、9個も年下の女の子に縋っていることが間違いなのだ、と思うことがある。ささやかな恋愛をさせてくれただけで、感謝すべきなのだ。私たちの道は、最初から交わる運命ではなかった。環境のせいだとしても、この人生を選んだのは自分なのだから、自分でケリをつけるべきだ。

 自分の人生を進めることができない。終わらせることもできない。誰かに頼って負担をかけるわけにもいかない。立ち止まってもどんどん差が開く気がして焦る。

 そのことも、怖くなくなりかけている自分がいて、怖い

短文

 ニートなので昼寝をしていた。昼寝をしていたら、2022年の夏の夢を見た。私は彼女を待っていた。結局、夢の中では会えなかったが、それでも幸せだった。

 仮にあの春に付き合うことができて、恋人として夏を過ごしていたとしても、その時間は永遠じゃないんだよな、と思った。誰かと形式上恋人として続いていたとして、最終的に夫婦として添い遂げることができていたとしても、隣にいる人との「戻ってこない時間」を思い出してしまうようなことはあるんだろうな。

 逆に、恋人ではなかったが、名前のついてない、少し甘酸っぱいあの時間も、「永遠の理想」として、少なくとも僕の中には残り続けるんだろうな、と思った。

 小山田壮平の「OH MY GOD」という曲をなんとなく連想して、今、流している。最初にちゃんと聞いたのは、2022年の4月30日に、彼のライブに行ったときだったことを思い出した。現実の2022年4月の、出会った頃の空気感に救われ、もしかしたら違う形で過ごしていたかもしれない4月30日の架空の思い出に、少しだけ傷ついている。

この曲は、そんな未練自体を肯定してくれるような気がした。

ライバル

 私は、「ムカつく」ことがあまりない。友達に恋人ができるとか、自分だけニートなのに他人の就職先は決まっているとか、どんどん年下の知り合いにライフステージを追い抜かれているが、悔しいとか、羨ましいといった感情が湧かない。おそらく、そもそも生きている土俵が違うと、心の奥底で思ってしまっているのだろう。

 もっというと、男性に対しては、ライバル心みたいなものがマジで湧かない。こいつらに認められてもな、と多分思っている。この同性へののライバル心は、精神分析的な同一化の形で、性自認に関わっていると思われる。

 幼少期、私の両親は不仲だった。私は母親から父親の愚痴や悪口を聞かされて育ち、私は母親の味方をすることで己のアイデンティティを確立していた。父親は、そんな私と母の関係に嫉妬し、私のことを蔑ろにする。おそらく、幼少期の私は、母親(女性)を自分と同じ属性であると認識し、仲間(ライバル)だと思うようになってしまったのだ。

 そうはいっても、身体的には男性なので、男として振舞わねば社会に居場所はない。成長するなかで、「男の振舞い」も「女の振舞い」も、無意識的に意図的に、身に着けないようにしてきた気がする。しかし、人間が人間になるためには、「社会規範」を押し付けられる必要がある。ルールを押し付けられるなかで、自分の「外部」が存在することを認識し、「他者」を認識できるようになる。

 以前、介護の仕事をしていた。上司とプライベートな雑談をしていたら、「お前の言葉遣いはおかしい」と上司に怒られた。恐らく、私の「比喩」を多用する喋り方が気に入らなかったのだろう。「お前の言葉遣いは間違っているから、俺の言うとおりに直せ」という旨のことを伝えられた。「理不尽なことを言うのが上司の仕事」「それに慣れるのが部下の仕事」とその人は言っており、おそらく、理不尽なのは承知の上で、私にそれに耐える練習をさせたかったのだろうと思う。

 確かに、私は甘い。それは事実として、そうだ。しかし、この「言葉」に関しては、私の核とも言える価値軸で、他人に譲り渡すことはできなかった。「仕事中の間違いに関しては、業務に差し障るのでいくらでも改善する」「プライベートな部分は、私の人間性の部分なので許してほしい」と伝えた。結局、「プライベートな部分での言葉遣いを上司に従う」か「退職」かの二択を迫られ、私は退職を選んだ。

 「言葉遣い」は、人間の思考を、つまりは人間性そのものを規定するものであると思う。そして、私の言葉遣いは、もし私が女性であれば、そこまで否定されなかっただろうな、とも思う。男社会で通用しない言葉を、男の「ガワ」をした存在が使用することは、許されていないのだ。

 私は男を「ライバル」として認識できない。「上司に否定されて悔しい」とか、「見返してやりてぇ」と、どうしても思えない。しかし、「性別」を含めたルールに従うことが、人間になるための前提条件なのだとしたら、私は、女を目指すべきなのかもしれない。

 完全な女になれなかったとしても、社会で馬鹿にされる存在になったとしても、それによってパートナーができなかったとしても、「既存のルール」に従うことが必要なのであれば、「女のルール」を模倣するところから始めるべきなのかもしれない。

 女性に認めてもらえる存在になりたい。

短文

 何かの流れで服装の話になって、「僕、お洒落だからw」と傲り芸をかましていたら、「じょーんさんは、お洒落ですよ」と真顔で言われた。「マジトーンで言わないでよw」とさらにヘラヘラしていたら、「じょーんさんは、お洒落ですよ」と、真顔で何回も繰り返され、耐えられなくなった僕は、グッと下を向いてしまった。

 あの時、珍しく「褒められること」を受け入れてしまった。あの時、あの人、あの関係性でなければ受け入れられなかっただろう。春先という季節が、出会った頃のことや別れた頃のことを思い出させた。

 この柔らかさをまた忘れてしまうんだろうな。