雨の降る国(おかざき真理)

このブログはあくまでも読書感想文にしようと思うので、読んだ本や漫画から話題を広げていきたいと思う。

 昔、僕は少女漫画が好きだった。男子校に在籍していたのだが友達はおらず、午前中は本屋に寄ってお昼ご飯代の500円で1冊漫画を買い、それを読んでから学校に行くという暮らしをしていた。男らしい人や荒々しい人が苦手だったし、そんな奴にはなりたくないと思っていた。どのコミュニティにも属さず、ただ一人で少女漫画を読み、自意識を肥大させながら僕は自分と自分の世界を確立していた。しかし、高校を卒業し男女の共同コミュニティに放り込まれると、自分は男として振る舞い荒々しいことをしないとこの世に存在してはいけないのだと教えられた。女の子と仲良くしたいと思っていたが、それは僕が男らしく振る舞い向こうから接近を許してもらった場合においてのみである。当たり前の話だ、僕は男で女の子に好意を抱いているのだから。僕はコミュニケーションに必要なコードを全く身に着けていなかったし、そのコードは全て男性的か女性的かでジャッジされることを知らなかった。

 少女漫画が読めなくなった。自分の思考が感性が気持ちが世間から許されるのか、世間に合わせている思考を感性を気持ちを僕は許せるのか、いったりきたりするうちに自分の座標を完全にこの世界から見失っていた。

 さっきの記事で書いた、『雨の降る国』(おかざき真理)はそんな話だと思っている。いじめられて不登校になった加也の家に、プリントを届けるという名目で主人公久美は毎日通っている。好きなものばかりを集めた部屋で、加也は好きな音楽を聴き、好きなことだけをし、雨が降っても濡れずに暮らしている。そんな部屋で、加也と久美は裸になり加也の兄を誘惑する。当然加也の兄はそれを拒み、「人のキモチで遊ぶのもいい加減にしろ」と叱責する。その「アソビ」に男は入ってこれないそうだ。多分、僕は雨が降っても濡れずに済む加也のような暮らしをしていた。同時に「アソビ」に入れて貰えない加也の兄の立場でもあった。

 現在、男友達はあまりいない。全くいないわけではないし、深くかかわっている男の人もいるが、一定レベル以上仲良くする場合はちょっと警戒してしまう。そんなことをしていると、男同士のコミュニケーションのコードは身につかないし、世間から存在を許してもらえなかったりする。その生き方は、ある意味無邪気な、ある意味無責任な人格を形成した。きっと、世間に向き合って生きるということと、責任のある人生を歩むということは、「部屋」から出るということであり、「アソビ」のルールに則った役割を演じるということなのだ。僕が責任ある人生を歩むためには、自分なりのルールを作らなけらばならない。ルールを無視することとルールを持たないことは違う。そのためには、きっと、たくさんのたくさんの少女漫画を読まなければならないだろう。新しいコードを、ルールを、作ってアウトプットしていけたらいいなと思います。