愛情の身体化

 私は30年間生きてきた中で、一度も恋人がいたことがない。他人に恋愛感情を持つと4,5年くらい平気で片思いをしてしまい、その間好意を寄せてくれる人が現れても「後悔するかもしれない」といった理由や「中途半端に優しくして相手を傷つけたら申し訳ない」といった理由でやんわり距離を置くということを繰り返してきた。

 それとは別の話で、私は今年に入ってから福祉系の仕事に携わっている。言葉が喋れない子供や、おむつを取り替えなければならないような子供の相手をしており、最初は嫌々というほどではないが「仕事だから」という義務論的モチベーションで仕事に取り組んでいた。しかし不思議なもので、「可愛がる」動作や「愛情を持って接する」仕草を繰り返しているうち、段々と感情の方が追い付いてきてしまい、「この子たちの幸せ」を願うような今までの人生で感じたことのないような温かい気持ちが芽生えはじめてしまった。

 岡崎京子の『恋とはどういうものかしら?』という短編集に収録されているチョコレート職人の兄弟と女の子のお話が好きで、ざっくりいうと「お別れして初めて相手への愛情に気づく」というストーリーなのだが、このお話同様私自身も目の前の相手への感情に鈍感すぎたようだ。今まで恋愛感情だと思っていたものは依存や「愛情」という強迫観念でしかなかった。

 きっと、今まで好意を寄せてくれていた人に対しても私は愛情を感じていた。距離が縮まる喜びや、優しくする/される幸せを覚えていた。それを拒否するということに身体が慣れすぎてしまい、受け入れられなくなっていまっていただけで。

 私は自分の人生というものに対して自暴自棄すぎて、自分が幸せになれる可能性や何かを成し遂げられる可能性を持つ存在だということに実感を持てなかった。30という明らかに若者と呼べなくなった年齢で、今更自分が愛情を持てるということに気が付きたくなかった。幸せになりうる存在だと気が付きたくなかった。いっそ感情に気づかないまま死ねたらどれだけらくだっただろうかとさえ思ってしまう。多分、いつかまた誰かと仲良くなって優しい気持になることがあるのならば、その時こそ形からでも相手を愛するという動作をしないと、いよいよ待っているのは破滅かもしれない。