家②

 以前恋愛経験がないと書いたが、高校の時に少しだけ交流があった女性がいた。何度か地元の水族館や植物園などに遊びに行き、上手く振る舞えないで毎回吐きそうな思いをしていた。

 ある時、その女性が「お母さんに遊びに行くことを伝えている」というようなことを言っており、ものすごい衝撃を受けたのを覚えている。私は、毎回毎回無理くり外出の理由を捻くり出して、アリバイに不自然な点がないか辻褄の整理をしてからデート(?)に臨んでいた。異性交流に対するスタンスのジェンダー差もあろうが、それでも異性と遊びに行くと伝えて、冷やかされも邪魔されもせず送り出してもらえる世界観を私は想像をしたこともなく、もしかしたら「上手くいかない」予感をそこで一番感じたかもしれない。私はむしろ、帰り道で家族と出くわしたらどうしよう、と心配し、無事帰ったら帰ったでなんとなくの後ろめたさから妹や母親の顔を正面から見られないでいた。「禁忌」としてこの交際(?)を扱っていたのだ。その女性と遊んだ後は、家族を裏切ったような気持ちになっており、泣きたいような気持ちに駆られていた。

 今思えば、この後ろめたさは働いて妹の学費を捻出する覚悟を決めた時の心細さや、チョコレートを買うことができなかった時の不安に通じているような気がする。きっと、恋をするということは、精神的な「家」を生まれたコミュニティの外に作る行為で、自立して自分の力で食べていくという行為も、「家を出る」ということで、チョコレートを買えないという状況が、「帰る家」の無さを肌身に感じさたのだ。

 一時、私は野垂れ死ぬつもりでいた。どこまで本心で覚悟を決めていたのかはわからないが、すくなくとも表面上は人生を諦めて生きられるところまで生きるというスタンスでいるつもりだった。しかし、これまで挙げたようなシチュエーションや、自業自得の金欠などの際に明日まで食べられるものが調味料しかない、といった事態になると、途端に将来の孤独がリアルに感じられた。この惨めさに耐えられるとは思えないと気づいてしまったのだ。きっと、飢えそのものより、飢えても助けを得られないという孤独感が絶対的な寂しさと私を向き合わせたのだろう。

 「家」らしい「家」がなかったせいか、私は幻想の実家を未だに追いかけてしまっているのかもしれない。あるいは、「自分の城」を持とうとするたびに壊されてしまったので、建てることを諦めてしまったのかもしれない。その両方が正解な気もする。