グッドウィル・ハンティングという映画がある。色々と鼻につくところもあるが、いい映画だ。天才的な数学の才能を与えられた主人公ウィルが、育ちの悪さゆえ自分の才能を自覚しつつも真正面から向き合えない、という話だ。

 私は、ずっと自分のことをカスだと思っていた。中高は男子校でスクールカースト最底辺、家庭は家庭で居場所がない。勉強をしてこなかったので、自分は頭が悪いと思っていた。

 20代半ばで大学に入学し、30が見えてこようかというところで休学をし、状況が変わった。

 私のことを、すごいすごいと言ってくれる後輩が現れた。彼曰く、私は天才らしい。最初は「ありがとう」とテキトーに流していたが、確かに他人に通じない話が、彼には通じる。どうやら、私は自分を理解してもらえる環境にいなかったらしいことに、徐々に気づいていった。その後、勉強をした私は、確かに学問的な力が伸びた。

 しかし、情報として、「天才である」という情報を持っていても、自己認識は「カス」のままなので、改めて自覚すると居心地が悪い。自分が気持ち悪くなってしまう。

 平野紫耀は、何千何万という人たちにキャーキャー言われて、死にたくならないのだろうか。あるいは謙虚な心を持ち続けられるのだろうか。

 多分、平野は、自分のやっていることが他人に還元できているという自覚があるのだろうな。ファンを喜ばせたり、CMに出演して売り上げを伸ばしたりなど、自分の才能を受け入れた上で、ひとり占めしないですんでいるから、自尊心を安定させていられるのだと思う(安定してるか知らんけど)。

 私は、他人に褒められても、それを自覚できない。私は頑固なので、「カス」の自己認識を譲ることができない。歳を取って、色々な引き出しだけは増えたので、また、年下の学生に囲まれる環境に長くいたので、褒められる機会が格段に増えた。しかし、微笑みながら「ありがとう」と言って、それを受け取ったフリをすることしかできない。あるいは、見せびらかして嫌な奴になるという優越感でしか、気持ち悪さを解決できない。

 

核心に迫る話のはずなのに、めちゃくちゃ気持ち悪くなってしまって、まとまらない。

 

めも、

他人に還元、

「天才」も「顔がいい」も、本質ではない、本質ではないものを愛されている気持ち悪さ

優しさとは、共感

共感とは、シェア

日常をシェア、感情をシェア

 

シェアの経験をしたかった 僕を許して