僕の名前は、スカビオです

 クマが人里に降りてきたとする。その場で捕獲し、山奥に連れて行けばそのクマは殺さないで済むかもしれない(知らんけど)。しかし、人間が餌をあげたりして人里に居着いてしまって、最終的に人間の肉の味を覚えてしまったら、そのクマはもう殺処分するしかない。

 


 私は、生まれついての悪というものは存在しないと思っている。物を盗んで生活するようになっても、それが平気になってしまったとしても、それはそれは突き詰めたら本人のせいではないと思っている。「加害者」とは「加害をさせられている者」であり、そういう「役回り」なのだ、と。

 


 私は、虐待やネグレクトを受けて育った。しかし、母親は母親で、やはりその母親から虐待を受けており、今でいうヤングケアラーのようなことをしていた。父親に関しても同様である。そのことに気づくと、彼らを責められなくなった。

 


 この秋、私は借金をした。私は自動車免許を持っておらず、この先必要だろうと就職するにあたって知人に頭を下げて、貸してもらった。結果、就職はできず、アルバイトのその日暮らしを続け、自動車学校からも足が遠のいた。こう書くと、アルバイトが忙しくて行けなかったかのようなニュアンスが含まれるが、実際は嘘である。通おうと思えばもっと通えた。暇だった時期もあったはずである。

 債権者に、就職ができなかった旨と免許が未だ取れていない旨を伝えた。就職はともかく、免許が取れていないのは話が違う、ということになった。それはそうである。即刻全額返済しろ、と伝えられた。脳裏に、返済のためのお金を貸してくれそうな人の顔が浮かんでは、消えた。そして、「この人とももう終わりだな」という思いが浮かんで、消えた。嫌われてしまったな、とは思ったが、それをさみしいかと問われれば、「別に」と答えそうな自分がいて、ゾッとした。

 私は、基本的に他人をバカにしているのだな、と思った。思ったというより、以前他人にそう言われたのを、改めて実感した。

 


 去年、30年生きてきて初めて本気の恋をした。しかし、相手の女性とは、曖昧な関係だった。細い線の上を、名前のついていない関係が綱渡りをしていた。それは、お互いが支えあう優しさの上に成り立っていたはずだった。

 私たちは、いくつかのすれ違いから、糸の上を滑り落ちてしまった。私は、彼女に裏切られたのだと思った。裏切られたのならば、裏切り返せばいいと思った。私は、彼女を突き落とした。

 もし、最初から彼女は私を裏切ってないのだとしたら。一方的に私が彼女を殴ったのだとしたら。仮に裏切られたのだとしても、本当に彼女を愛しているならそれを許すことはできなかったのか。私は、私たちが育んだ優しい時間を、修復できないレベルで破壊した。

 私は、自分の人生がめちゃくちゃになろうと、後悔と憎しみで満ちたまま幕を閉じようと、それでもいいと本気で思っていた。しかし、彼女に見捨てられて終わるのは、私と仲よくしたことを後悔されたまま終わるのは嫌だ、と思ってしまった。悲しいと思ってしまった。深い絶望の中で、生まれ変わるしかない、と気づいた。

 


 救われない人間がいたとして、それは本人のせいではない。何かの歯車が違えば、誰も傷つけずに幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、人間を襲うようになってしまったクマは殺すしかないように、救われない側に行ってしまった人間は、見捨てるしかないのだ。

 


 彼女に見捨てられたくない。見捨てさせたくない。向こうは二度と私に会いたくないと思っているかもしれないが、それでもいつか再会してもらえるような自分になりたい。借金を返すために、住み込みの農家のアルバイトに応募してきた。義務に追われて、他人も自分も大切にする生き方にしか、彼女へ通じる道はない。