町田康『告白』

 中学の時、一切勉強をしていなかった。学年が上がる際、数学の教師に呼び出され、「どうにかなると思ってるだろ」という旨の説教を受けた。

 大学を休学していた時期、学費を稼ぐため介護のアルバイトをしていた。最初に勤めていた会社の直属の上司に、「なんやかんや人生どうにかなるって思ってそうな甘えがある」と言われた。

 最初に自殺未遂をした時、病院のベッドに横たわる私の手を母がずっと握りしめ、額に当てて祈るような仕草をしていた。別に入院直後という訳でもない。多分思いつきで「愛してるムーブ」をしたのであろう。それに居合わせた看護師さんが、「見てはいけないものを見てしまった」という顔をしていたのを覚えている。成人した男子(一応)が、それを拒まずに受け入れている気持ち悪さは理解しているつもりだったが、その上でそれを拒むことの面倒臭さが勝ってしまった。

 ゼミの指導教官が、卒論指導の時間に私を煽ることがある。基本的に私情をあまり持ち込む人ではないので、おそらく私に腹を立たせ、むっとさせ、「何くそ」と思わせたいのであろう。わかってはいるが(わかっているからこそ?)、ムキになる気も起こらずテキトーに流してしまう。

 この夏、いよいよ町田康の『告白』を読んだ。ピンとこなかった。悲しいのだろうな、というシーンはなんとなくわかったが(弥五を撃ち殺すシーンなどそのピークなのだろう)、その上で悲しいと思えなかった。多分、これを悲しいと思う人間は、自分が助かるとなどと思っているのだろう。説教を受けたりしたら、「そうは言っても甘えがあるのかな、」とか「野垂れ死ぬ間際に、死にたくない、などとぬかすのかな」と考えることもあったが、多分、私は本当に心の底から自分のことを諦め切っているようだ。熊太郎の日常は私の日記そのものであり、何も目新しいことはなく、またその結末もずっと前からわかっているものであった。

 先日、二度目の自殺未遂をした。尊敬している先生に、「次やったら地獄の底まで追いかけるからね」と言われた。好意を寄せている女性に多分罪悪感や不安や悲しみを与えてしまった。妹に、「もう疲れた」と言われてしまった。自分で思っているより、私の生き死には他人に影響を与えるようだ。

 今のところ、自分で自分を大切にはできないが、大切な人を悲しませないために、踏ん張らなければならいな、という気持ちが心の片隅にはある。