ケア

 「ケア」という行為について考えることがある。

 私は、自分をケアをする側とされる側に分けるとすると、圧倒的にする側だな、と最近気づいた。もちろん、ケアとはされている最中はそのことに案外無自覚なものであり、している時は「やってやってる」感が出てしまうので(喜んでやっているとしても)、実際よりも「私はケアをしている」と全員が思っているものなのかもしれない。

 しかし、「ケアをしている」具体例を幾つか挙げようとしたが、この程度でケア感をだすのは恩着せがましいのではないか、という遠慮や罪悪感が出てきてしまい、ケアエピソードを語ることができない自分がいる。この「遠慮」こそがケア要員が等しく抱えているものなのではないか、と思ったりもする。

 この春、とてもつらくて悲しいことがあった。私が悪いわけではないし相手が悪いわけではない。私が悪かったが相手も悪かった。そんな出来事だった。一人で抱えるにはつらすぎる出来事だったので、仲のよい友人や家族に「つらい」という感情を吐露した。私は怒られた。何故だかよくわからない。そのなかで妹に言われたのが、「感情を受け止める余裕がない、自分でどうにかしてくれ」というものであった。相手の気持ちを支える、寄り添うということは(普段からそんなことをいちいち考えているわけではいが)、相手が困っていることそのものだけを解決すればよいわけではない。最近食べた美味しいものや、面白かった出来事、仕事でつらかったことなどを聞くことからはじまるように思う。その延長線上に肉親を亡くす悲しみや一人で生きていくことの不安、彼氏からDVやモラハラまがいのことを受けてつらい、といった話が出てくるのだと思っている。もちろん、私は「相手を支えなければ」というおこがましい義務論で相手と接しているわけではない。ただただ相手のことが好きだからもっと知りたいし、もし助けになるなら相手の困っていることも聞きたい、大切な人にはそう思って接してきた。

 もしかしたら、私が他人に抱いているほどの興味を、他人は私に抱いていないのかもしれない。ケアをしてくれる存在だから使っているだけで、それは私でなくてもよいのかもしれない。ケアを「させる」存在に、自分はわざわざ労力を割きたくはないのかもしれない。そのことに気づくと、なんと損な役回りだろう、と思ってしまうし、それをわかった上でやめられない自分にも腹が立つ。