他人事のフェミニズム(少女のスカートはよくゆれる)

 私は、大学でフェミニズムの勉強をしている。広義のトランスジェンダーに属するであろう私も、定義の上ではもしかしたらフェミニズムの対象の射程に入るのかもしれない。しかし、どうしてもフェミニズムに「当事者意識」をもって向き合えないし、そんなものをもつのはおこがましいという気持ちが心のどこかにある。

 フェミニズムとの向き合い方は長い間私の課題であった。当然のことながら○○がフェミニズムだ!と定義する権利は私にはない。フェミニズムがなんであるかを内側から考えることはできない。フェミニズムが男性に奪われた女性の言葉を奪還する行いだとしたら、その言葉を男性として生まれ育った私がすこしでも代表してしまうと、とてもグロテスクなものとなってしまう気がするからだ。かといってやはり自分とは無縁な世界だ、と己から切り離して概念的に処理しても、それはそれでフェミニズムを理解したとはいえないだろう。

 岡藤真依さんの、『少女のスカートはよくゆれる』という漫画がとても好きだ。あらすじを語ったりはしないが、この記事を読んでいる男性には一度でいいから読んでみてほしいと思う。この漫画を読みながら、私は自分が女性に行ってきた「暴力」について考え、罪の意識や自己嫌悪に苛まれていた。例えば、自分が女性に思いを寄せて、それをノーフィルターで伝えたとしたら、そのことによって相手が感じるかもしれない恐怖や嫌悪感について思いを馳せたことがあっただろうか?無遠慮な視線を女性にぶつけたことはなかったか?自分勝手な振る舞いに巻き込んだことはなかったか?そんな自問自答が一瞬のうちによぎり、どうあがいても己は暴力的な男性としてしか存在し得ないのだ、という残酷な事実に向き合わざるを得なくなった。

 長い間、「男が嫌いな自分」と、「女の人が好きな自分」の間で悩んできた。友人として仲良くしているつもりでも、好きになって/なられて、他人を傷つけることを繰り返すうち、「自分は卑怯者だ」という思いが強くなっていった。都合のいいときだけ友人で、自分の気分次第で恋愛感情を持ったり持たなかったりするのだから。「ちゃんとした男」になろうと努力した時期もあったが、「男性コミュニティ」の中に入ることをどうしても受け入れられず、毎回フェードアウトしていた。私は「コミュニティ」というものに属したことがないかもしれない。結局、社会化されることなくよくわからない存在として世界を漂い続けた。

 私は女の子が好きだ。男の人よりも好きだ。できれば男でありたくないし、女の子を泣かせるような真似は絶対にしたくない。そのことに真正面から向き合ったとき、「それでいいではないか」と思ってしまった。女の子が誰よりも好きだから、全ての女性に笑っていてほしいし、少なくとも自分のせいで辛い思いをしてほしくはない。それでいいではないか、と。フェミニズムには永遠に「当事者」として関わることはできないだろう。しかし、「他人ごと」として、外側から、女の子が大好きだから、大好きな女の子のためにフェミニズムを勉強する。誰よりも優しい男になるために。それでいいと、最近心の底から思えるようになった。