所有の概念

 小学校の時、お小遣いは月額制だった。しかし、それが払われることはほぼなく、僕は僕で欲しいものがあったわけでもないので請求もしなかった。きまぐれに貰うことはあった。中学に上がると月2000円がきちんと払われるようになった。僕は半分を雑誌の定期購読に使い、半分を本を買うために使った。しかし、本ばかり読んで友達と遊ばない僕に社交的になってほしかったのか、本を読むことと雑誌を買うことは禁止された。また、お小遣いとは別に両親から年に一度お年玉を貰っており(親戚づきあいはなかったので両親からしか貰っていなかった)、「いい子」だった僕はそれを使わずに全額貯金に回していた。小学校時代に浪費を全くしなかった反動か、中学にあがると欲しいものが沢山出てきた。貯金額は数万円ほどあったが、両親は貯金を使うことを許してくれなかった。

 高校に上がると、女の子と遊びにいったりするなど流石の僕も社交の場を避けられなくなった。それは、遊びに行くお金だけではなく服を買ったり共通の趣味に費やすお金も必要になるということで、月々のお小遣いだけでは賄いきれなくなった。貯金に手を出しても許してもらえるだろうと、引き出したい旨を伝えた。貯金はないと言われた。悲しくはなかった。もはや自分のお金だという意識はなく、無くて元々くらいに考えていたので、ある中でやっていく方向にシフトするだけだった。

 僕は、他人に奢られることに対してあまり抵抗がない。奢ってくれたという好意がうれしかったりするが、「得をした」あるいは「申し訳ない」みたいな感覚がない。逆に他人に自分のモノ・カネをあげたり貸したりということにも抵抗がない。やっちゃいけないことだと途中で気づいて理性で抑えてはいるが。おそらく、「所有」ということが感覚としてよくわかっておらず、自分のモノ・他人のモノという線引きが、自分の領域・他人の領域というテリトリーが欠落しているのだと思う。貯金という習慣はもはや失われているし、その日暮らしのような生活を何年も送っている。ため込んでもいつか失われると知っているからだ。しかし、人間の暮らしというものは、文明というものは「貯蓄」によって成り立っている。そのことからは僕も逃げ切ることはできない。この、何も持たないというヒッピーのような縄文人のような暮らしは、親の支援の上で成り立っている。紛い物のロックンロールなのである。

 おそらく、何を持つのか、何を捨てるのか、ということの繰り返しで人格というものは形成されていく。ジュディス・バトラー的に言えば身体に書き込まれていくのである。僕はそれを拒否し続けた。しかし、それが成り立ちうるとしたら、リンゴを食べる前の状態、楽園の中でだけなのである。この世界において何も持たないというのは、人間にならないということだ。持たないことの是非の話をしているのではない。この世界は持つことを前提に成り立っており、この世界の中で生きる道を選ぶかどうかという話なのである。

 先日、いざという時の為に貯金しようという約束の奨学金がなくなっていたことが分かった。今週、仕事先に迷惑をかけた際、金銭的負担は僕が持ちますといって怒られた。本質的には同じことである。

 芸術は、楽園から追放された人の一瞬の救いなのであり、楽園に本当に住むということは狂気と一体化するということなのだ、ということにようなくながら気づき始めた。