破滅は僕を幸せにはしない

 「カメレオンズリップ」という舞台を見に行ってから、「真っ当に生きる」ということについてずっと考えている。

 僕は、昔から破滅願望を持っていた。自分はいつか野垂れ死ぬんだろうとずっと思っており、最後の最後で「死にたくない」などとみっともないことを言わないようにするにはどうすればよいか、ということをずっと考えていた。僕を殴った人たちを、妹を泣かせた人たちを皆殺しにし、銃を咥えて死ねたらサイコーだな、などと考えていた。そして、「カメレオンズリップ」はそんな甘い夢を見せてくれるお芝居だった。

 ところで、僕には仲の良い友人がいて、彼はロックがとても好きだった。しかし、彼曰く「ロックは偽物」らしく、彼はたまにその問題と戦っていた。僕には言っている意味がよく分からなかった。

 穂村弘のエッセイ『もうおうちへかえりましょう』の中に、ブルーハーツに関する話が出てくる。自意識の肥大しきった学生時代の筆者が、ブルーハーツの「リンダリンダ」を恋人から見せられその「ロック性」に全てを救われる、といった内容なのだが、この話を先述の友人に見せたら、演技を真に受けている、というようなことを言われた。曰く、ブルーハーツは「ロックで遊んでいる」らしく、「よくできたロックを演じている」らしい。本来「よくできたロックの演技」に感心するというのが正しい鑑賞法なのだが、「ロックの演技」を「ロックそのもの」だと勘違いして、手のひらの上で踊らされているような、ネタにマジレスするような、そんな食い違いが起きている、というようなことを言っていた。

 その友人は僕に町田康の『告白』を読めと言ってきた。僕は読むと約束したが、結局半分くらいしか読まなかった。そして僕はその子におかざき真理の『雨の降る国』を読んでほしいと言った。読んでくれた。少し喧嘩になった。彼は「破滅してもいいことはないですよ」と僕に言った。僕には言っている意味がよく分からなった。

 僕は好きなものに囲まれ、好きなことをし、殺し、殺されて終わればそれでいいと思っていた。どうせ他人は裏切るのだから、命は終わるのだから、人類は滅びるのだから、宇宙は消滅するのだから。そうした生き方のほうが物事はよく見える。

 ルーファスとドナは愛し合っていた。愛し合っていたから破滅という救いがあった。一瞬だけでも永遠があった。しかし、きっとそんな綺麗には死ねない。僕は誰も愛していないし誰も僕を愛してはいない。雨の国からは出なければならない。そんなとき、多分残っているのは惨めさと後悔と孤独だ。そんなことは皆分かっているのだ。分かっているから虚構としてのカメレオンズリップを、偽物としてのロックを、一瞬の真実という嘘を楽しむことができるのだ。僕は穂村弘だった。破滅というリンダリンダを、演技としてではなく幸せそのものだと思って見ていた。そんなものは嘘だと皆分かっていたのに。

 僕は、「真っ当に生きる」ということについて考えている。人を殺して幸せになれるのならば、人を殺して大切な人を幸せにできるのならば、僕はルーファスにだって熊太郎にだってなれるだろう。しかし人生はお芝居じゃない。僕は人生を眺めていたが、みんなは人生を演じている。演じているから人生が本物でお芝居もロックも漫画も嘘なのだ。僕は今「真っ当に生きること」について考えている。それは自分の力で生きていくということ、つまり約束を守るということ、つまり他人に嘘をつくということ、嘘を嘘と見抜くということ、そしてホンモノの言葉は本当の人生でしか喋らないということ。きっと友人が僕に伝えたかったこと。破滅をしても幸せになれないと分かってしまったので、幸せになる方法を考えている。僕はとてもダサい。