続・愛情の身体化

 最近、感情が鮮明になることがある。今まで感情が鈍磨していたことにふと気がつくことがある、がより正確だろうか。普段は自分の感情が鈍っているという自覚すらなく、ただただ空虚な感覚と怒りと悲しみの衝動にだけ突き動かされて暮らしているのだが、犬を撫でていたりバイトで子供を可愛がる仕草をするなどしていると「愛情の閾値」を超えることがあり、そうすると急激に世界が色鮮やかになる。今まで見ていた仕方で世界を見れなくなり、逆にどうしていままでこの感情というものがわからなかったのかとさえ思ってしまう。

 そうなると、自分の感情だけでなく他人の感情に対しても敏感になってくる。元々他人の表情や言動から相手が考えていることを察するのは得意な方だと思ってはいるのだが(他人が嘘をつくのに必要以上に気づいてしまったり、LINEの文面越しに友達が泣いているのを当ててしまうようなことが多々あった)、一方変なところで鈍かったりもしてきた(本気で後輩が怒っているのにへらへらしてしまうなど)。ずっとその原因が分からず、自分は人並みに感情を持っていない・理解できないのではないのかと思い悩んだ時期もあった。だが、どうやら私は人並みの感情が育っていなかっただけのようだ。

 今までも自分の豊かな感情に気づきかけたことはあったが、恐怖心や気恥ずかしさが勝ってしまって最後まで自分の気持ちと向き合うことができなかった。とても仲良くしてくれた人がいて、週4,5日くらい寝泊まりを共にしながら一晩中語り合うようなことをしていた。今思えばその会話を通じて己の気持ちや自己認識を掘り下げる作業をしていたのだが、どうしても心を開ききってない部分があったようで、毎回話し終わって眠りにつく頃には寂しいような恥ずかしいようなとても心細い気持ちになっていた。また、依存度の高い私の性格のせいで関係の終盤はお互いにとってよくない影響を与えてしまっており、自分の不安な気持ちや分離の不安のようなものを相手にぶつけ、相手は相手で断り切れない、といった状況になっていた。

 数を数えられる馬の話がある。例えば、3+5=?と書かれた紙を見せると8回、2+4=?と書かれた紙を見せると6回足を鳴らすそうだ。仕組みは簡単で、8回なら8回、6回なら6回足を鳴らし、周囲の人が歓声をあげた瞬間足を鳴らすのをやめればニンジンが貰えると馬が覚えているだけのことなのだが、これと同じことが私にも言える気がしている。私は他人の表情や言動にその場しのぎの対処療法でリアクションしていただけで、その相手の気持ちの仕組みというものまで認識がいっていなかったように思う。相手が笑っている・泣いている・不機嫌だということは理解できるのだが、それと自分の言動が結び付けられなかったり、あるいは過度に結びつけてしまうようなことをし続けてきた。

 バイトをしていて思うのだが、小学生は「自分が、自分が」という話をよくする。大人であれば「受け」のリアクションをするようなシチュエーションでも平気で自分の話を被せてきたりする。一方、中学校くらいから「他者の目」のようなものが世界の構成要素のなかに現れ、会話やコミュニティのパワーバランスといったものを意識しだすようにも思う。私は反抗期らしい反抗期がなかった。反抗できるほどの気力はなかったし、家庭内のヒエラルキーにおいても反抗できるほどの立場を与えられてはいなかった。「他者の目」を意識するということは思春期(=反抗期)を迎えるということで、自分しかいなかった世界に他人という軸が現れるということで、それは相対的に自分というものの境界線が立ち現れるということだ。反抗期がなかった者が自分の感情と向き合う時に恐怖や気恥ずかしさを覚えるのは、はっきりしていなかった自他の境界が定まり、改めて目を見て会話をするような気まずさが伴うからかもしれない。

 やはり、というかしかし、というか、ここにきて改めて自分の感情を認識できるようになったのは、子供たちの面倒を見はじめたからだと思う。繰り返しになるが「愛情を与える」という動作を繰り返しているうち、本当に愛情に対してセンシティブになってしままったようで、ある種の愛情の臨界点まで子供たちが連れて行ってくれたように思う。おそらく今は感情に対して敏感だが、また気づいたらなにも感じない自分になっているだろう。その状態で無理やり心を開こうとしても理性や意志ではどうにもできない。少しずつ少しずつ、繰り返し繰り返し愛情というものを表現し、感じ取れるようになりたい。このあたたかで優しい気持ちが当たり前の状態になればよいなと思う。