可能性を受け入れる覚悟

 いきなり嫌なことを言う。私は顔を褒められることが多かった。しかし、私はそのことをずっと受け入れることができず、褒めらると否定し、褒められそうな話題の流れになるとそのことを意識してしまい身構えてしまった。否定してばかりだと嫌らしいかなと思い、「僕顔いいから()」とか「俺モテんねんw」などネタっぽく誤魔化したりもした。だが、それはそれでやはり居心地が悪く、「顔を褒められる自分」とうまく向き合えないでいた。

 冒頭、「多かった」と過去形で書いたのは、5年間で30㎏太り、年も取ってしまい、褒めらる機会がなくなったからだ。寂しさを覚える一方で、少しほっとしている自分がいるのも事実だ。

 私は顔の良し悪しを認識できないことはないが、あまり興味がない。芸能人を好きになったことはほぼないし、恋愛においても顔で人を好きになったことがない。世間でかっこいいあるいはそうでないと言われる顔の認識はできるが、そこに価値判断を結び付けられないのだ。

 先ほど虚無感を拭うために深夜の散歩をしてきた。極寒の中を歩くと身体感覚が研ぎ澄まされ、普段感じられないものを感じられるようになるので意識的に行っている。その中で思考をなるたけ止めて音楽と感覚に集中する努力をしていた。ALというバンドの「北極大陸」という曲を聴いていた。今まではこの曲の「死にたさ」のようなものにフォーカスした聞き方をしていたが、寒さがそうさせたのか、死にたさの中の「生きたさ」のようなものの強さに気がついてしまって、そこからは「生きたさ」ハイとシンクロしながら歩き続けた。

 自分の感情や感覚を強く実感したとき私はとても怖くなる。自分が見たことない可能性を感じてしまって世界がとても大きく見えるのだ。先ほど、自分の「生きたさ」に気がついてしまったとき、そこからどんどんと、あったかもしれないあるいはまだあるかもしれない「自分の可能性」に連鎖反応的に意識がいってしまった。どうやら「選び取れなかった可能性」に気づかないようにするため、「まだ選び取れる可能性」にも目を背け続けてきたようだ。容姿に関しても、他人と比べてではなく自分の中で一番美しかったであろう時期をもっと大切にすればよかったという「己の可能性への後悔」のようなものの存在を認めざるを得なくなった。

 私は中高を男子校で過ごした。元々男子が苦手なのもあり共学の学校に行きたいと思っていたが、周りの勧めという名の世間体の圧を押し返すことができず、母校へ行く羽目になったのだ。今でも母校を受験したとき答案を白紙で提出すればよかったと考えることがある。人並みに友達と遊び、馬鹿な事をし、恋をする人生を歩みたかった。しかしもうそれらを経験することは永遠に無いのだ。自分が永遠に経験することはないであろう「青春」を目の前で見送って思うのは、望む形ではなくてもやはり一度しかない若さを楽しめばよかった、という後悔だ。おそらく、30代に関しても40代になったとき同じことを思うのだろう。老人になったとき、何も為しえなかった人生に本当に自分は耐えられるのだろうか?

 おそらく、何事にも価値判断ができないある種のアナキズムのようなものが僕の根っこにあるのは、「すべてが等しく無価値」だからだろう。聖域がないからタブーもなく、悲しみがない代わりに喜びもない。そして、究極自分がいないので他人もいないのだ。自分の可能性を見つめて、「何がしたいのか」「そのために何をすべきなのか」「そこから逆算して今何をすべきなのか」という視点を持たないと、何も失わない代わりに何も得ることができない「可能性だったもの」にしかなれない。

 先ほど散歩をしながら、実は容姿を褒められることから逃げる一方でそのことを強く意識していたことに気がついてしまった。本当の本当に褒められることが自分にとって無価値なら、笑って流せたのではないだろうか。やはり、どこかで褒められたい自分がおり、褒められる要素として外見をアイデンティティとしていたのではないだろうか。

 

失うことからも得ることからも逃げ続けていたら、気づいた時には何も成し遂げいていない老人になっているかも知れない。