驕り芸

 私は褒められることが苦手だ。褒められると居心地が悪いし、どうリアクションしたらいいのか未だによくわからなくなる。しかし、褒められることが苦手な根幹の理由は、その場の空気の気まずさではなく、「褒められることを自分が許せない」からであろう、と思う。自分が評価されるに値する人間だと思っていないので、先回りで「僕〇〇ができるんだよ〜〜」と自慢をしたり、褒められた際に「でしょ笑笑」などと得意ぶって「台無し」にしたくなるのだと思う。私はこれを「驕り芸」と呼んでいる(スベリ芸、のノリで)。

 なんjの有名なコピペに、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」というものがある。これは驕り芸にも同じことがいえるのではないか、と思う。パロディとして演じているうちに本当になってしまう、というのはジュディス・バトラーの思想だが、件のコピペも、驕り芸も、同じことが言えるのではないだろうか。

 先日、オードリーの春日が炎上した。オードリーの春日と知り合いではないので、普段の言動もどこまでが「素」のキャラクターで、どこからが「オードリーの春日」なのかはわからない。しかし、ずっと「オードリーの春日」として生活しているうちに、演じ続けていた「オードリーの春日」は「素」の部分に侵入してくるのではないか、と思う。あの炎上は、「オードリーの春日」としてやっている限り、起こるべくして起こっていたのではないか、と思ってしまう。

 もう随分とテレビを見ていないが、一時期マツコ・デラックスから嫌な雰囲気が出ているな、と思った。テレビに登場した当初は、ズバズバとモノを言い、反権力的な姿勢が見ていて気持ちがよかった。しかし、いつのまにか自身の発言力が増していることに気づかず、「弱いものいじめをする強者」になっているように映った(最近はそうでもないのかな、となんとなく感じるが、テレビをみていないのでわからない)。

 自分がマイノリティ、ヒエラルキー下位である限りは「毒」が武器になり得るが、自分が権力を持つ側、強者側に回った途端、それは「暴力」となる。そして恐ろしいことに、自分が暴力をふるう側に回ったとき、大概は自覚ができないものなのだ。

 最近、自分がとても嫌なヤツだと思うことがある。「驕り芸」が「芸」で済まなくなっているのかも知れない。