言い訳

  できないことをなぜできないのかと迫るのは、残酷だな、と思う。

 よくある例えだが、アルコール中毒者は酒を飲んでいると同時に、酒に飲まされている。その構造から抜け出すことは自分の理性のみでは不可能だ。

 DVをしてしまう男は、殴りたくて彼女や子供を殴っているわけではない。他者との関わり方をそれしか知らないのだ。自分の気持ちを言葉にして、受け取って、受け取ってもらって、というプロセスが、インプットされていないのだ。

 性被害を受けた女の子が、自分の傷を正当化するために売春をしてしまう、という話も、最早説明の必要はないだろう。

 究極、シリアルキラーだって、殺してたくて殺しているわけではない。

 心無い人は、これを、言い訳という。アル中になるようなカスは、酒に溺れる弱さに負けたのだ、と。

 心無い人が心無いのは、その人のせいなのだろうか。思いやりの心が育まれる機会がなかったのかもしれない。世界を構造的に見ることが苦手なのかもしれない。あるいは単純にその事柄への知識が不足しているのかも。そう思うと、誰も責められない。これは、長らく私のなかの問いであった。

 ここに、一つの結論が出た。以前にも述べたが、「救えるか否か」で分ける、という方法だ。

 里山に迷い込んできただけのクマは、捕獲して山奥に逃がせば殺さないで済む。しかし、人里に居ついて人間を襲うようになってしまったクマは、殺すしかない。

 アル中患者を、入院させて、リハビリさせて、自助グループなどに入れて、救えるなら救ってもいいのかもしれない。しかし、支援に疲弊しきっている家族が見捨てたとしても、その家族は責められるべきではない。それは救えないクマだったのだ。アル中患者は悪くないし、その家族も悪くない。そのような構造で世界が作られていただけだ。

 私は、自分の救えない人生を、救えないという「言い訳」にしてはダメだと思っていた。客観的に見て救えない環境だとしても、それを一人称視点の自分が言い出したら、腐ってしまう、と。

 幼い頃、私は父親に可愛がられていた。しかし、妹が産まれたら父親は妹ばかり可愛がるようになり、私は露骨に蔑ろにされるようになった。無視されたり、おもちゃを勝手に捨てられたりする。母親は、私に怒鳴る。メンヘラなので、5歳の私が「正解」のリアクションを取れないと、不機嫌になり、怒鳴り、駅のホームに私を置き去りにしたりする。手も出たことがある。こんな環境で育ったので、他人との関わり方がわからない。はじめて友人ができたのは、小学校5年生の時に、塾に通うようになってからだ。他人に愛されたことのない人間は、愛し方がわからない。愛し方のわからない人間は、愛を注がれて育った人間から、「異常者」としてつま弾きにされる。つま弾きにされた人間が、人生へのモチベーションをなくし、堕ちるところまで堕ちてしまうと、怠け者だ、と責められる。

 こんな人生を送ってきたことを、私はずっと黙っていた。重たいと思って引かれたくないし、「過去」をダシにして同情を引くのは卑怯だと思っていた。しかし、私が言い訳をしても、「可哀そうさ」を武器に同情を引いたとしても、それも私のせいではないのかもしれない。背負えない荷物を抱え込んだまま死んで、自分や周りを苦しめて終わるより、「卑怯」な手段を選んで楽をした方が、みんなが救われるのかもしれない。

 私のことを、見捨てたいなら見捨てればいい。そうしたとしても誰も責められる筋合いはない。ただ、それはみんなにとって後味の悪い結末をもたらさないか、と卑怯な僕は考える。