ナポレオン・ボナパルト

 人生で何度か、私に「父性を授けよう」としてくれる人に出会った。私を叱り、どやし、威圧し、そのことに慣れさせようとしてくる人たちに。私は、それに怯え、「やめてほしい」と感情を伝え、抵抗したが、彼らはそれをやめてくれなかった。冷静に考えると、それはそうである。感情という「甘え」を否定することが、父性の仕事なのだから。

 私は、母性がとても強い人間であると自分では思っている。世間で間違っているとされていることを他人がしていても、それを行ってしまう「背景」を考えて、「許し」てしまう。「次から気をつけようね」と。一方、「ダメなものはダメ」と厳格に裁き、罰を与え、試練を与えるのが父性だ。私にはそれがない。

 父性と母性、どちらが正しくどちらが間違っているというものではない。父性ばかりだと、厳格で冷たい人間になってしまうし、母性ばかりだと自分にも他人にも甘すぎて、ルールが崩壊してしてしまう。どちらもバランスよく必要なものである。

 そのうえで、私は父性が弱い生き方を、敢えて選んでいるつもりだ。父性は、社会にとっては必要なものかもしれないが、人間個人を幸せにしてくれるものだとはどうしても思えないからだ。実に卑怯者である。

 当たり前のことだが、父性は男性というジェンダーに、母性は女性というジェンダーに結び付けて考えられがちだ。しかし、その対比は対照的なものではない。女性が父性を身に着けることは、現代において「成長」ととらえらることが多いように思う(特にキャリアなどで)。しかし、男性が母性を身に着けることは、「弱さ」「女々しさ」「甘え」と形容される場合が多く、「優しさ」として評価されることは少ないように感じる(父性の「厳しさという優しさ」を求められる方が多いように思う)。

 実際、「生きやすさ」を「社会を円滑に渡ってゆく能力」と定義すると、男性は母性を持たない方が生きやすいと思う。母性というなよなよスキルなどない方が、仲間内で認められるし、モテるし、目上の人から評価されやすい。おそらく、私に「父性を授けよう」としてくれた人たちも、親切心でそうしてくれたのだろう。「お前、そんな甘いこと言ってたら生きられないぞ、」と。

 そんなことは、私もわかっている。わかった上で、己の信念として、か弱い男として生きているのだ。

 私の確信に、「社会的に成功したマッチョな男は、死ぬときは一人」というものがある。社会で成功するために父性マシマシで生き延びた「男」は、最終的に家族の中に居場所を作れず、引退後はコミュニティからも疎外され、孤独死するだろう、というものだ。これは、あながち間違ってないと思う。もしそうだとしたら、なんのために戦うのか。私は、社会で認められず、お金も稼げず、結婚できなかったとしても、小さいコミュニティで和やかに過ごしながら、わいわいとしょーもない日常を共有する老後を過ごしたい。そう、心の底から本気で思っている。

 私はフェミニズムを信じていた。フェミニズムの根底にあるのは、「父性の否定」であると信じていたからだ。実際、レズビアンフェミニズムはそう主張しているように思う。

 しかし、父性を失くした「去勢されたオス」の扱いは、バトラー的に言うなら「棄却(アブジェクション)された存在」なので、つまり、人間として扱われないので、この世に居場所はない。

 また、「父性を備えた女性」は、行動の規範がそれはそれで既に存在しているが、「母性を持っている男」に生き方の正解はないので、何をやっても己のエゴになってしまうリスクがある。常に自分に否定的な感情を持って生きるか、世界に否定的な感情を持って生きるかしかできないのだ。

 私は、今、「生き延びるために孤独死をする可能性の高いマッチョな自分」と、「理想を貫いて皆から蔑ろにされる優しい自分」の狭間で揺れている。後者を選びたいが、それはそれで、「フランスに革命をもたらした後、独裁者となったナポレオン」になってしまうのではないかという恐怖がある。

 母性を定義することはできないのだから。