ライバル

 私は、「ムカつく」ことがあまりない。友達に恋人ができるとか、自分だけニートなのに他人の就職先は決まっているとか、どんどん年下の知り合いにライフステージを追い抜かれているが、悔しいとか、羨ましいといった感情が湧かない。おそらく、そもそも生きている土俵が違うと、心の奥底で思ってしまっているのだろう。

 もっというと、男性に対しては、ライバル心みたいなものがマジで湧かない。こいつらに認められてもな、と多分思っている。この同性へののライバル心は、精神分析的な同一化の形で、性自認に関わっていると思われる。

 幼少期、私の両親は不仲だった。私は母親から父親の愚痴や悪口を聞かされて育ち、私は母親の味方をすることで己のアイデンティティを確立していた。父親は、そんな私と母の関係に嫉妬し、私のことを蔑ろにする。おそらく、幼少期の私は、母親(女性)を自分と同じ属性であると認識し、仲間(ライバル)だと思うようになってしまったのだ。

 そうはいっても、身体的には男性なので、男として振舞わねば社会に居場所はない。成長するなかで、「男の振舞い」も「女の振舞い」も、無意識的に意図的に、身に着けないようにしてきた気がする。しかし、人間が人間になるためには、「社会規範」を押し付けられる必要がある。ルールを押し付けられるなかで、自分の「外部」が存在することを認識し、「他者」を認識できるようになる。

 以前、介護の仕事をしていた。上司とプライベートな雑談をしていたら、「お前の言葉遣いはおかしい」と上司に怒られた。恐らく、私の「比喩」を多用する喋り方が気に入らなかったのだろう。「お前の言葉遣いは間違っているから、俺の言うとおりに直せ」という旨のことを伝えられた。「理不尽なことを言うのが上司の仕事」「それに慣れるのが部下の仕事」とその人は言っており、おそらく、理不尽なのは承知の上で、私にそれに耐える練習をさせたかったのだろうと思う。

 確かに、私は甘い。それは事実として、そうだ。しかし、この「言葉」に関しては、私の核とも言える価値軸で、他人に譲り渡すことはできなかった。「仕事中の間違いに関しては、業務に差し障るのでいくらでも改善する」「プライベートな部分は、私の人間性の部分なので許してほしい」と伝えた。結局、「プライベートな部分での言葉遣いを上司に従う」か「退職」かの二択を迫られ、私は退職を選んだ。

 「言葉遣い」は、人間の思考を、つまりは人間性そのものを規定するものであると思う。そして、私の言葉遣いは、もし私が女性であれば、そこまで否定されなかっただろうな、とも思う。男社会で通用しない言葉を、男の「ガワ」をした存在が使用することは、許されていないのだ。

 私は男を「ライバル」として認識できない。「上司に否定されて悔しい」とか、「見返してやりてぇ」と、どうしても思えない。しかし、「性別」を含めたルールに従うことが、人間になるための前提条件なのだとしたら、私は、女を目指すべきなのかもしれない。

 完全な女になれなかったとしても、社会で馬鹿にされる存在になったとしても、それによってパートナーができなかったとしても、「既存のルール」に従うことが必要なのであれば、「女のルール」を模倣するところから始めるべきなのかもしれない。

 女性に認めてもらえる存在になりたい。