無限、無限

 人間は、規則性を見つけた時に「笑い」が発生する生き物だと思う。所謂「あるある」は、無秩序な日常の中に、「○○をするときは××が発生する」という規則を見つけて、なぜか面白くなってしまうのだ。「お笑い」も、「振って、振って、外す」という、自分で作った規則と、そこからの逸脱という構造で、なぜか面白くなってしまう。

 ただ、構造だけが存在すればよいかというと、それもまたちがう。小三男子は、すぐに「無限、無限」という。「無限」「100億円」「何年何月何日何時何分地球が何回回った時?」と。これらは、「丁度よく」ない。「適度な加減からの逸脱」というボケなのであろうが、「逸脱」具合が極論すぎてイマイチぴんと来ないものとなってしまっている。「笑い」を笑いたらしめるものは、「構造」と「丁度よさ」の両方なのだ。

 他方、事象を「笑い」に落とし込むことは、その事象を自分から切り離して他者化することでもあると思う。モノマネで笑うのは、モノマネの「対象」が自分の外部にある存在だから笑えるのであり、自虐をするときは、その自虐の対象は自分から切り離されている。

 私は、「価値判断ができない」と言われる。例えば、「あの人はキモイ」と私が言ったとして、それは「あの人が嫌い」とイコールではない。ただ、「あの人はキモイ」という事象について述べただけで、私がその人を好きか嫌いかは別問題だ。思っても言わんけど。

 これを、「空気を読む力」の問題に落とし込むこともできる。しかし、「無限、無限」の問題で考えることもできないだろうか。「自分と事象」「見ている自分と感じる自分」の乖離の度合いが強ければ強いほど、「笑い」や「哲学」のレベルが上がる。それは、乖離の度合いが弱い者にとって、「無限、無限」と極論を言っているように聞こえてしまうのだ。

 私は、「乖離」のレベルが強い。それは、学問をしたり笑いを掴みたいならとてつもない武器になる。大学に入ってとても強くなってしまった。

 しかし、笑いはもういい。哲学ももういい。ただ、目の前の小さな感情を温めながら生きていきたい。

 程よい笑いと程よいあるあるを。