おわり

 高校を卒業した後、束縛ストーカー野郎に捕まった。風俗やAVの話ばかりするやつで、少女漫画育ちの私は一緒にいるのが辛かった。しかし、彼の誘いを断ることが出来なかった。どうにかこうにか逃げ出して、ケータイも着拒しても、教えてない家電に着信が来たりした。とても怖かった。自分の大切に守っている世界が壊されたと思った。

 

 私は今まで自分が好きだったものたちを愛せなくなった。自分が穢されたと思った。これ以上感性が汚れてしまう前に、死んでしまおうと思った。死ねなかった。これが1回目の自殺未遂である。

 

 今はその高潔な心を失ってしまった。現実に落ちぶれた。私は穢れてしまった。

 

 本当の破滅とは、自分自身がダメになってしまうことではない。他人の大切なもの、大切な人が本当に本当に大切にしているものを壊しても平気になることである。

 

 私は、自分自身はいくらでも壊せるが、大切な人の大切なものを壊すのは、心が引き裂かれるみたいに苦しい。

 

 自分の気持ちを守ること、自分自身が生きていくことと、他人の大切なものを守ることが両立しない場合、どちらを選んでも誰かを傷つけてしまう場合、どうしたらよいのか。何が正しかったのかわからない。

 

 肯定できない現在を、どうにかこうにか肯定して、生きていくしかない。

 

続・失恋の優しさ

 以前、失恋の感覚が好きだ、という話をした。それが自分の中で深化した感覚があるのでもう少し言語化してみたい。

 

 私は、あまり音楽の善し悪しがわからない。周りの音楽をやっている人間から勧められた曲・アーティストを聞いたりはするが、大体が「なんとなくいいな」くらいで終わってしまう。それでも、感度が鋭くなっているときに音楽を聞くと、溢れる感情に心が耐えられなくなりそうになることもある。

 

 最近、銀杏BOYZを聞いている。「好きなあの娘とソフトクリームを食べたい」みたいな「キモいくらい必死な片思い」的な曲は正直あまり刺さらないのだが、「漂流教室」は「ちゃんと気持ちが通じ合っている」感じがして、何度も聞いては心を壊しそうになっている。

 

 おそらく、「友人」の「悼み」をテーマにしているであろうこの曲から、私はなんとなく失恋の匂いを感じてしまう。誰かを失って、その人の大切さに心の底から気づいてはじめてその人と本当に分かり合えるのかもしれない。その喪失と獲得のプロセスを、人は「悼み」や「弔い」と呼ぶのだろう。

 

 去年、日記をつけていた。ここしばらくサボっていたなぁ、と思い、久々に書こうかな、と手に取ったら、「大切な人」との思い出がぎっしり詰まっていた。一緒に楽しく過ごす喜びから、「何もせずに、あるいは無理やりやることをひねり出しながら過ごす夜は惨めになる」といった恨み節のような一節まであったが、それらすべてが大切な思い出で、記憶だけでなく気持ちのディデールまでまざまざと思い出してしまい、まるで2022年の夏に戻ったかのような気分になった。

 

  Twitter銀杏BOYZのボーカル、峯田和伸のブログの一節が回ってきた。

 

    僕は思うんだ。本当の芸術というのは、音楽にしたって映画にしたって文章にしたって演芸にしたってなんにしたって、

    ドアが開かぬまま
    あなたに会いに行ける魔法だって。

 

 多分、私は、今まで出会った大切な人たちとは、喪失を経ることによっていつでも再会できるようになっているのだ。

サンタ感 ver.0.02

 初期の記事は比喩や表現がぬるいな、と読み返して思うので、書き直していきたいです。

 

 

 幼少期、私のところにサンタクロースがやってきた。

 幼い私はプレゼントを貰えて嬉しかった反面、おじいさんが身銭を切ってプレゼントを買い、寒空の下世界中の子供たちに配って回っているところを想像して悲しくなってしまった。あたたかくしてね、とか、ゆっくり休んでいいんだよ、というようなことを思ってしまい、罪悪感と、庇護欲と、悲しさがないまぜになったような泣きたいような笑いたいような気持ちになった。この感覚をサンタ感と私は呼んでいる。

おそらく、私にとって愛とは一回一回の行為であって状態ではないので、愛されると居心地の悪さや罪悪感を覚えてしまい、「早く終わってくれ」と耐えられなくなってしまうのだ。私は、別れを伴う悲しい愛しか知らないので、愛し方も離別の形でしか表せないのであろう。

好意を寄せている女性と交換日記をしていた。そこまで頻繁にやり取りをしていたわけではないが、いつ返事が来るかわからないそわそわ感や、自分たちだけが知っている秘密のようなものがよい刺激になっていた。

最後の最後、交換日記に愛をしたため、プレゼントと、彼女が好きなガルボ(お菓子)のいちご味を添えて日記の隠し場所に置き、私は去ろうとした。自分としては、不完全な関係なりに綺麗な終わり方だと思ったし、この行為によってお互いに笑ってさよならを言えると思った。しかし、偶然すれ違ったときに彼女はとても悲しそうな顔をしており、挨拶すらしてくれなかった。

私は罪悪感に襲われた、彼女を傷つけてしまったこと、それも私なりの優しさで彼女を傷つけてしまったことに私は傷ついた。彼女を求めても困らせてしまうし、優しく去っても傷つけてしまう。どうしていいのかわからなくなった。

 本当の家族だったらよかったのに、あるいはすんなり恋人になれたらよかったのに。最初から離れる運命なのに、しっかり愛を育んでしまったので、誰かが傷つかねばならなくなった。トロッコ問題である。

反乱者たちも、カメレオンズ・リップも、今思えば離別の愛の話である。そんな究極の選択をせずとも、皆が幸せになれる愛に触れてみたい。毎日小さな優しさを与えあえる関係が欲しい。私はとてもさみしい。

健全な魂

 「仲良くしている女性」が、健全な魂になりたい、と言っていたことがある。ニュアンスとしてはわかったが、全く同じものを共有できているかはよくわからなかった。

 最近、プライドをなくす方法について友人と話した。方法についてはおいていおくが、結論として、等身大のプライドを身に着けたいね、というところで話は落ち着いた。

 その夜眠りにつきながらふと気が付いた。健全な魂とは等身大のプライドのことそのものではないか、と。

 仲良くしている女性が、「昔弱っていた時に相談をしたら、優しく頭を撫でて貰えたのが嬉しかった」という話をしてくれた。喧嘩をした際、「じょーんさんの優しさに甘えてしまっていました」と泣きながら電話をかけてくれた。きっと、心細いときや辛いときにそっと寄り添って肯定してくれる温もりに、そして間違ったことをしたら横っ面を思いっきり張り倒してくれる厳しさに、等身大のプライドは、健全な魂は育まれるのではないだろうか。

 私は自分たちの関係をどう形容したらいいのか未だによくわからない。恋のようで友情のようで家族のような、謎の一体感があった。喧嘩をして終わってしまったのが非常に残念だ。それでもお互いがお互いにとって安心できる場を提供できていたのならいいな、と思う。お互いを大切にし、叱ることができていたのならいいな、と思う。

 

 もしももう会うことがなかったとしても、お互いの言葉で、行動で、魂を健全にする手助けができていたらいいな。

 

 この気持ちが執着ではなくなって、純粋な愛になる日が1日でもはやく来ますように。

驕り芸

 私は褒められることが苦手だ。褒められると居心地が悪いし、どうリアクションしたらいいのか未だによくわからなくなる。しかし、褒められることが苦手な根幹の理由は、その場の空気の気まずさではなく、「褒められることを自分が許せない」からであろう、と思う。自分が評価されるに値する人間だと思っていないので、先回りで「僕〇〇ができるんだよ〜〜」と自慢をしたり、褒められた際に「でしょ笑笑」などと得意ぶって「台無し」にしたくなるのだと思う。私はこれを「驕り芸」と呼んでいる(スベリ芸、のノリで)。

 なんjの有名なコピペに、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」というものがある。これは驕り芸にも同じことがいえるのではないか、と思う。パロディとして演じているうちに本当になってしまう、というのはジュディス・バトラーの思想だが、件のコピペも、驕り芸も、同じことが言えるのではないだろうか。

 先日、オードリーの春日が炎上した。オードリーの春日と知り合いではないので、普段の言動もどこまでが「素」のキャラクターで、どこからが「オードリーの春日」なのかはわからない。しかし、ずっと「オードリーの春日」として生活しているうちに、演じ続けていた「オードリーの春日」は「素」の部分に侵入してくるのではないか、と思う。あの炎上は、「オードリーの春日」としてやっている限り、起こるべくして起こっていたのではないか、と思ってしまう。

 もう随分とテレビを見ていないが、一時期マツコ・デラックスから嫌な雰囲気が出ているな、と思った。テレビに登場した当初は、ズバズバとモノを言い、反権力的な姿勢が見ていて気持ちがよかった。しかし、いつのまにか自身の発言力が増していることに気づかず、「弱いものいじめをする強者」になっているように映った(最近はそうでもないのかな、となんとなく感じるが、テレビをみていないのでわからない)。

 自分がマイノリティ、ヒエラルキー下位である限りは「毒」が武器になり得るが、自分が権力を持つ側、強者側に回った途端、それは「暴力」となる。そして恐ろしいことに、自分が暴力をふるう側に回ったとき、大概は自覚ができないものなのだ。

 最近、自分がとても嫌なヤツだと思うことがある。「驕り芸」が「芸」で済まなくなっているのかも知れない。

ケア

 「ケア」という行為について考えることがある。

 私は、自分をケアをする側とされる側に分けるとすると、圧倒的にする側だな、と最近気づいた。もちろん、ケアとはされている最中はそのことに案外無自覚なものであり、している時は「やってやってる」感が出てしまうので(喜んでやっているとしても)、実際よりも「私はケアをしている」と全員が思っているものなのかもしれない。

 しかし、「ケアをしている」具体例を幾つか挙げようとしたが、この程度でケア感をだすのは恩着せがましいのではないか、という遠慮や罪悪感が出てきてしまい、ケアエピソードを語ることができない自分がいる。この「遠慮」こそがケア要員が等しく抱えているものなのではないか、と思ったりもする。

 この春、とてもつらくて悲しいことがあった。私が悪いわけではないし相手が悪いわけではない。私が悪かったが相手も悪かった。そんな出来事だった。一人で抱えるにはつらすぎる出来事だったので、仲のよい友人や家族に「つらい」という感情を吐露した。私は怒られた。何故だかよくわからない。そのなかで妹に言われたのが、「感情を受け止める余裕がない、自分でどうにかしてくれ」というものであった。相手の気持ちを支える、寄り添うということは(普段からそんなことをいちいち考えているわけではいが)、相手が困っていることそのものだけを解決すればよいわけではない。最近食べた美味しいものや、面白かった出来事、仕事でつらかったことなどを聞くことからはじまるように思う。その延長線上に肉親を亡くす悲しみや一人で生きていくことの不安、彼氏からDVやモラハラまがいのことを受けてつらい、といった話が出てくるのだと思っている。もちろん、私は「相手を支えなければ」というおこがましい義務論で相手と接しているわけではない。ただただ相手のことが好きだからもっと知りたいし、もし助けになるなら相手の困っていることも聞きたい、大切な人にはそう思って接してきた。

 もしかしたら、私が他人に抱いているほどの興味を、他人は私に抱いていないのかもしれない。ケアをしてくれる存在だから使っているだけで、それは私でなくてもよいのかもしれない。ケアを「させる」存在に、自分はわざわざ労力を割きたくはないのかもしれない。そのことに気づくと、なんと損な役回りだろう、と思ってしまうし、それをわかった上でやめられない自分にも腹が立つ。

町田康『告白』

 中学の時、一切勉強をしていなかった。学年が上がる際、数学の教師に呼び出され、「どうにかなると思ってるだろ」という旨の説教を受けた。

 大学を休学していた時期、学費を稼ぐため介護のアルバイトをしていた。最初に勤めていた会社の直属の上司に、「なんやかんや人生どうにかなるって思ってそうな甘えがある」と言われた。

 最初に自殺未遂をした時、病院のベッドに横たわる私の手を母がずっと握りしめ、額に当てて祈るような仕草をしていた。別に入院直後という訳でもない。多分思いつきで「愛してるムーブ」をしたのであろう。それに居合わせた看護師さんが、「見てはいけないものを見てしまった」という顔をしていたのを覚えている。成人した男子(一応)が、それを拒まずに受け入れている気持ち悪さは理解しているつもりだったが、その上でそれを拒むことの面倒臭さが勝ってしまった。

 ゼミの指導教官が、卒論指導の時間に私を煽ることがある。基本的に私情をあまり持ち込む人ではないので、おそらく私に腹を立たせ、むっとさせ、「何くそ」と思わせたいのであろう。わかってはいるが(わかっているからこそ?)、ムキになる気も起こらずテキトーに流してしまう。

 この夏、いよいよ町田康の『告白』を読んだ。ピンとこなかった。悲しいのだろうな、というシーンはなんとなくわかったが(弥五を撃ち殺すシーンなどそのピークなのだろう)、その上で悲しいと思えなかった。多分、これを悲しいと思う人間は、自分が助かるとなどと思っているのだろう。説教を受けたりしたら、「そうは言っても甘えがあるのかな、」とか「野垂れ死ぬ間際に、死にたくない、などとぬかすのかな」と考えることもあったが、多分、私は本当に心の底から自分のことを諦め切っているようだ。熊太郎の日常は私の日記そのものであり、何も目新しいことはなく、またその結末もずっと前からわかっているものであった。

 先日、二度目の自殺未遂をした。尊敬している先生に、「次やったら地獄の底まで追いかけるからね」と言われた。好意を寄せている女性に多分罪悪感や不安や悲しみを与えてしまった。妹に、「もう疲れた」と言われてしまった。自分で思っているより、私の生き死には他人に影響を与えるようだ。

 今のところ、自分で自分を大切にはできないが、大切な人を悲しませないために、踏ん張らなければならいな、という気持ちが心の片隅にはある。