親の死(ニートやってる方が親孝行なのか??)

 数年前、父方の祖母が死んだ。祖母は父が高校生くらいのころから父にお金を無心していたそうで、最後の数年は金が必要な時だけ連絡をよこす祖母に父も愛想を尽かし、完全に縁を切って過ごしていたようだ。金とギリギリの愛情を失った祖母は生活保護を受ながら暮らしていたそうで、誰かに構ってもらいたかったのか、小さなことで警察を呼んでは「またか」という扱いを受ける近所で有名な迷惑婆さんになっていたそうである。生活保護を受けていたので、葬儀場でお寺さんを呼んでお葬式、ということもできず(そういう決まりらしい)、どこかスペースを借りて祖母の息子二人とその家族だけでこじんまりとした送別会をやったのを覚えている。

 最初はヘラヘラと祖母の昔話をしていた父だが、(父の兄は祖母に育てられていないので、弟である父が喪主的な立場をやっていた)やはり見捨てた罪悪感があるのか、そもそも親という存在が根源的に見放し切れない存在だからか、最後は祖母に謝りながらさめざめと泣いていた。私は父のことが嫌いだが、祖母ー父の関係だけで見たら明らかに父は「被害者」で、いくら祖母を恨んでもバチが当たらないようなことをされてきたはずである。それでも、愛憎という言葉があるように、「憎」の部分があるからこそ「愛」の部分もより深くなるのであろうか、肉親を捨てた罪悪感はどうやら貸し借りの勘定では割り切れないもののようである。

 私の母はスピリチュアル系の宗教をやっている。昔からその手の界隈を渡り歩いていたので、話し合っても無駄だと分かり切って(諦め切って)おり、今回の教祖様にハマった時も「養分として吸われるならば自己責任」だと思って放置していた。しかし、何故か今回は母の支配欲という才能がコミュニティと噛み合ったのか、どんどん「吸われる側」から「吸い上げる側」へとランクアップしており、流石に人としての一線を超えているのではないかと見ていて思うことがある(本当はとっくに超えているのだろうが)。

 私が、例えばパートナーが欲しいと思ったり、人並みの人生を歩みたいと思ったら、明らかに母の存在は足枷である。どこかで私も母と縁を切る覚悟を決めないと、自分の人生を歩むことはできないだろう。しかし、きっと縁を無事切ることができたとしても、誰かを見捨てた罪悪感のようなものに一生苛まれるのだろうな、という予感もしている。半分親に飼われているような現状を抜け出すモチベーションがそもそもあるのかという問題もあるが、自分の人生を生きることに身勝手さを見出してしまい、一歩を踏み出すことを躊躇わせている。