味覚障害

 私は、定期的に感情が死ぬ。感情が死ぬのは、大体が理不尽さに触れた時だ。例えば、いじめが起きていたとする。いじめが起きて、被害者生徒が我慢に我慢を重ね、最終的に加害者生徒を殴ったとする。そこで「殴った」という事実だけが切り取られ、被害者生徒が退学処分になったとする。何が「事実」かを決定する力を持っているのは、いじめっ子だ。このような構造を見かけてしまうと、もっというと自分の身に降りかかってくると、世界から感情が消え、人間も含めた万物が歯車のように世界の部品にしか見えなくなってくる。

 

 こうなると、自力では抜け出せない。好きだったものの「味」が分からなくなり、「好きだったはず」という記憶を頼りに好物を口にしたりするが、もうその気持ちは思い出せない。

 

 「つらかったね」の一言で、人間の優しさを思い出すこともある。自分が間違っていたと気づくことで、謙虚さを思い出すこともある。子供に無条件の愛を注ぐことで、自分が救われることもある(私は、放課後デイサービスでアルバイトをしていた。)。

 

助けて

僕の名前は、スカビオです

 クマが人里に降りてきたとする。その場で捕獲し、山奥に連れて行けばそのクマは殺さないで済むかもしれない(知らんけど)。しかし、人間が餌をあげたりして人里に居着いてしまって、最終的に人間の肉の味を覚えてしまったら、そのクマはもう殺処分するしかない。

 


 私は、生まれついての悪というものは存在しないと思っている。物を盗んで生活するようになっても、それが平気になってしまったとしても、それはそれは突き詰めたら本人のせいではないと思っている。「加害者」とは「加害をさせられている者」であり、そういう「役回り」なのだ、と。

 


 私は、虐待やネグレクトを受けて育った。しかし、母親は母親で、やはりその母親から虐待を受けており、今でいうヤングケアラーのようなことをしていた。父親に関しても同様である。そのことに気づくと、彼らを責められなくなった。

 


 この秋、私は借金をした。私は自動車免許を持っておらず、この先必要だろうと就職するにあたって知人に頭を下げて、貸してもらった。結果、就職はできず、アルバイトのその日暮らしを続け、自動車学校からも足が遠のいた。こう書くと、アルバイトが忙しくて行けなかったかのようなニュアンスが含まれるが、実際は嘘である。通おうと思えばもっと通えた。暇だった時期もあったはずである。

 債権者に、就職ができなかった旨と免許が未だ取れていない旨を伝えた。就職はともかく、免許が取れていないのは話が違う、ということになった。それはそうである。即刻全額返済しろ、と伝えられた。脳裏に、返済のためのお金を貸してくれそうな人の顔が浮かんでは、消えた。そして、「この人とももう終わりだな」という思いが浮かんで、消えた。嫌われてしまったな、とは思ったが、それをさみしいかと問われれば、「別に」と答えそうな自分がいて、ゾッとした。

 私は、基本的に他人をバカにしているのだな、と思った。思ったというより、以前他人にそう言われたのを、改めて実感した。

 


 去年、30年生きてきて初めて本気の恋をした。しかし、相手の女性とは、曖昧な関係だった。細い線の上を、名前のついていない関係が綱渡りをしていた。それは、お互いが支えあう優しさの上に成り立っていたはずだった。

 私たちは、いくつかのすれ違いから、糸の上を滑り落ちてしまった。私は、彼女に裏切られたのだと思った。裏切られたのならば、裏切り返せばいいと思った。私は、彼女を突き落とした。

 もし、最初から彼女は私を裏切ってないのだとしたら。一方的に私が彼女を殴ったのだとしたら。仮に裏切られたのだとしても、本当に彼女を愛しているならそれを許すことはできなかったのか。私は、私たちが育んだ優しい時間を、修復できないレベルで破壊した。

 私は、自分の人生がめちゃくちゃになろうと、後悔と憎しみで満ちたまま幕を閉じようと、それでもいいと本気で思っていた。しかし、彼女に見捨てられて終わるのは、私と仲よくしたことを後悔されたまま終わるのは嫌だ、と思ってしまった。悲しいと思ってしまった。深い絶望の中で、生まれ変わるしかない、と気づいた。

 


 救われない人間がいたとして、それは本人のせいではない。何かの歯車が違えば、誰も傷つけずに幸せな人生を送っていたかもしれない。しかし、人間を襲うようになってしまったクマは殺すしかないように、救われない側に行ってしまった人間は、見捨てるしかないのだ。

 


 彼女に見捨てられたくない。見捨てさせたくない。向こうは二度と私に会いたくないと思っているかもしれないが、それでもいつか再会してもらえるような自分になりたい。借金を返すために、住み込みの農家のアルバイトに応募してきた。義務に追われて、他人も自分も大切にする生き方にしか、彼女へ通じる道はない。

はじめに言葉ありき

 高校に碌に通っていなかった。人生に目標はなく、やりたいこともなく、なりたい自分もなく、お昼ごはん代で一日一冊漫画を買い、駅のベンチなどでそれを読み、部活の先生と喋りに学校へ行く。そんな暮らしをしていた(あと一単位落としていたら高校は留年だった)。

 朝起き、スッキリを見終わって家を出ようかという頃に、当時実家で飼っていた犬(ももちゃん)が甘えてくる。甘えてくるももちゃんを無下にもできず、頭やらおしりやらなで回していると、行かないで、とばかりに膝の上から動こうとしない。可哀想なので膝の上に乗せておいてやる。気づけば昼過ぎである。そんな暮らしをしていた。

 最近、言葉がスラスラ出てこない。感情の輪郭がぼやけており、「あの感じ」そのものだけが存在している。ももちゃんを撫でていたときの一体感そのもの。悲しいような、嬉しいような寂しさが、胸の底で波打っている。

 空腹とは寂しさそのものなのかも知れない。小さい頃、なにも食べずにずっと一人で過ごしていた。思春期、お腹は空かせていたけれど、この世界は無限だと思っていた。夜遅くまで好きな女の子を待ち、一緒にお弁当を食べる日々の温かさ。

 最近、人生に諦めがついた。もがくだけもがいた。足掻けるだけ足掻いた。あとは、穏やかに一日三食少しのごはんを美味しく食べて、言葉なんか忘れて生きていきたい。

 

よい人生だった。

【小説】檻のなかのクリスマス

 ある寒い冬の夜、サンタクロースは世界中の子供たちにプレゼントを配って回っていました。

 

 サンタクロースが道端で、次に訪ねる家の場所を確かめていると、おまわりさんに声をかけられました。

「そこのきみ、なにをしているのかね」

サンタクロースは正体を知られるわけにはいきません。

「ええ、わたしは仕事が終わったところでね、今家にかえってるんですよ」

そういってごまかしました。

「ほんとうかね?」

おまわりさんは疑わしそうにおじいさんを見つめています。

「ちょっと一緒に来ていただけるかな」

サンタクロースは、おまわりさんについていくことにしました。

 

「さむいですなぁ」

 みちすがら、サンタクロースはおまわりさんにはなしかけます。

「そうだな」

おまわりさんは、ぶっきらぼうに答えます。

「警察になるのは昔からの夢だったのですか?」

サンタクロースはおまわりさんに尋ねます。

「そうだ」

おまわりさんはぶっきらぼうに答えます。

「そうですか、そうですか」

サンタクロースはニコニコしています。

「おまわりさんの名前は、ユウジですか?」

サンタクロースは尋ねます。

「どうしてわかったんだね」

おまわりさんはびっくりして言いました。

「なんとなく、そんな気がしただけですよ」

サンタクロースはニコニコしながら答えました。

 

「ここに座りなさい」

おまわりさんは交番におじいさんを連れてくると、椅子に座らせました。

「名前は、なんというのかね」

おまわりさんは聞きます。

「ニコラスといいます」

サンタクロースは答えます。

「どこに住んでいるのかね」

おまわりさんはまた聞きます。

「寒いところです」

サンタクロースはまた答えます。

「ガシャーン」

そのときです、外から大きな物音がしました。

「そこでまっていなさい」

おまわりさんはそういうと、あわてて外にかけ出しました。

 

 サンタクロースは、さて、と小さく呟くと、指を鳴らして手錠を外してしまいました。そのまま、裏口のほうへぬきあし、さしあしで向かいます。

 しかし、ふと何かに目をやると、サンタクロースは立ち止まってしまいました。

「ケン」

交番の裏側には牢屋がありました。そして、いったい何をしてしまったのでしょう、その中には昔野球が大好きだったケンがいたのでした。

「ケン」

サンタクロースはもう一度小さくケンの名前を呼びました。しかし、ひげ面のケンはグゥグゥいびきをたてて眠っています。

 ケンは冷たいコンクリートの床に、薄い毛布一枚で、とても寒そうです。サンタクロースは、どうしても黙って通り過ぎることができませんでした。

「パチン」

サンタクロースは、指を鳴らすとふかふかの布団を出し、ケンにそっとかけてやりました。

「メリークリスマス」

サンタクロースは悲しそうにそう呟くと、ケンの頭をそっと撫でました。

 

 サンタクロースは改めて裏口から交番を出ると、そそくさと夜道をいそぎました。ケンのことが頭から離れず、ずっと暗い気持ちでいました。サンタクロースは、次のユカちゃんの家を探していました。すると、近くから人の気配がします。よく見ると、暗がりであたりをキョロキョロと見まわしている男がいます。誰でしょうか、そう、泥棒です。

 サンタクロースは面倒なことになったな、と思いながら、泥棒に近づきました。すると、泥棒もサンタクロースの気配に気づいて後ろを振り向きました。

 泥棒は一瞬驚いた顔をしましたが、顔を引き締めると、サンタクロースを睨みつけました。

「やめるんだ」

サンタクロースは静かにいいます。

「うるさい、あっちへいけ」

泥棒は答えます。

「きみはまだ引き返せる、やめるんだ」

「うるさい、うるさい、あっちへ行かないと、どうなってもしらないぞ」

泥棒は声を荒げます。

「やめるんだ」

サンタクロースは泥棒の目を見つめて静かにいいます。

うるさいうるさいうるさい

そういうと、泥棒は懐から刃物を取り出しました。

 その瞬間、サンタクロースは力いっぱい泥棒をひっぱたきました。

「やめるんだ、タケル。」

そういって、ボロボロ涙を流しながら、もう一度弱々しくタケルを叩きました。

「きみは昔、とてもやさしかった。みんなみんな、やさしいタケルのことが大好きだった。」

そういうとサンタクロースは暗闇に消えていきました。

 タケルは、なぜだかとても悲しい気持ちになって、わんわん泣き出しました。わんわん泣きながら、うちへ帰りました。

 

 翌朝、ケンは不思議な気分で目覚めました。変な夢を見たからです。ケンは子供に戻っていました。子供に戻ったケンは、保育園で遊んでいました。保育士さんは優しくケンに絵本を読んでくれます。みんなで楽しく歌を歌いました。それから、お昼寝をして、おやつを食べました。そのままお母さんが迎えにくるのを待っていると、ふとケンは自分が大人であることに気づきました。ごめんなさい、そう思うとケンは目を覚ましました。目覚めると、涙が流れたあとがありました。

 

 サンタクロースは、年に一度の仕事を終えると、自分の家に戻り、この世界のすべての子どもたちの幸せを祈りました。そして、すべてのかつて子どもだった人たちの幸せを祈りました。

「メリークリスマス」

そういうと、サンタクロースは指を二回ならし、少し笑いながらベッドに横になりました。

【小説】ドムと傘

 こぐまのドムは、駄菓子屋さんに来ています。お母さんから貰ったお小遣いをもって、おやつを買いに来たのでした。

 しかし、森から街に降りてくる頃、雨がポツリポツリと降りはじめ、駄菓子屋さんに着く頃にはザアザア降りになっていました。

「ごめんください」

ドムはずぶ濡れのからだで駄菓子屋さんに入ります。

「いらっしゃい、よくきたね」

駄菓子屋のおばあさんがこたえます。

 

「ドムや、寒くないかい」

おばあさんは言います。

「だいじょうぶだよ」

ドムはこたえます。そのまま、グミキャンディーが並べてあるショーケースに向かいました。ドムは、カラフルなグミキャンディーを見るのが好きでした。ドムは、グミキャンディーをカップですくうと、紙袋に入れました。

「くださいな」

ドムが、グミキャンディーをもって、レジへ行きました。

「100円だよ」

おばあさんはこたえます。

ドムは、お金を払おうとカバンを開きました。しかし、すぐに困った顔をしてしまいました。なぜなら、ドムはお財布を忘れてしまったからです。

「なんだい、お金がないのかい」

ドムがもじもじしていると、おばあさんがいいました。

ごめんなさい、とドムがいう前に、

「しょうがないね、そこで待ってなよ」

と、おばあさんは奥の部屋へ消えていきました。

 

 しばらくして、おばあさんはあたたかいココアを片手に戻ってきました。

「からだが冷えてしまっているだろ、これでも飲んで帰りな」

おばあさんはいいます。

「でも、」

ドムは申し訳ない気持ちになってしまいましたが、

「遠慮せずに飲みなさい」

と、おばあさんは譲りません。

 

 ドムは、あたたかくてあまいココアをちびちび飲みました。

 ココアを一緒に飲みながら、おばあさんとドムはお話しをしました。ドムは、昨日家の庭にヘビがでたこと、おとうさんのおならが大きくて、おかあさんとドムが夜中に目覚めてしまったこと、好きな女の子がいることを話しました。おばあさんは、おじいさんが病気で入院していること、大切な孫のこと、そしてドムや、おみせにやってくる子供たちのことも大切に思っていることを話しました。

「さあ、暗くなる前に帰りな」

ドムがココアを飲み終わると、おばあさんがいいました。

 

「ありがとう」

そういってドムがお店を出ようとすると、

「これを持っていきな」

とおばあさんが傘を差しだしました。

 申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ちで、ドムは泣きそうになってしまいました。

「気にしなくていいんだよ」

おばあさんはそういうと、ドムの頭を優しく撫でました。

 帰り道、ドムはとても幸せな気持ちでした。

 

 それから、ドムは傘を大事にしました。おばあさんの優しさが、とてもとても嬉しかったからです。一日に何回も傘を開き、寝るときは枕元に置くほどでした。

 それからしばらくして、お母さんから再びお小遣いを貰うと、ドムは傘をもって駄菓子屋さんに向かいました。

 

 みちすがら、ドムは傘を大切に大切に扱いました。地面に落としたり、何かにぶつけたりしないよう、細心の注意を払いました。

 カラスが、

「みてみろ、ドムのやつ、こんなに晴れてるのに傘なんかもってるぜ」

とけたたましく笑いましたが、無視して黙々と駄菓子屋を目指します。

 

「おばあさん、こんにちは」

 駄菓子屋の扉を開いてドムは言いました。

「ドムや、よくきたね」

おばあさんはこたえます。

「傘、ありがとう」

ドムはそういいながら傘を差し出しました。

「あのね、僕、この傘のことうんと大事にしたんだよ」

ドムは言います。

「とても嬉しかったから、一日に何回も開いて、寝るときも一緒だったんだよ」

「最後にもう一回、傘を開いていい?」

そう言いながら、ドムは傘を開きました。

 

 すると、なんということでしょう、所々傘は破れており、光の筋が透けて見えます。きっと、森を抜けるとき、草むらや木の枝にこすれて、破れてしまったのでした。

 ドムは、泣きべそをかいてしましました。悲しさや、申し訳なさでいっぱいになってしまったからです。ドムは、わんわん泣きました。泣けば泣くほど悲しくなってしまい、せっかくのおばあさんの優しさを台無しにしてしまった気分でした。

「しょうがないね、そこで待ってなよ」

そういうと、おばあさんは奥の部屋へ消えていきました。

 

 しばらくして、おばあさんはお裁縫道具とアイロンをもって戻ってきました。

 まず、おばあさんは傘の破れたところにアイロンでワッペンをつけ始めました。ドムのだいすきなグミキャンディーのワッペンです。紺の傘に、色とりどりのワッペンが貼られて、とても綺麗です。

 次に、おばあさんは傘の袋を縫い始めました。傘がすっぽり収まる長細い袋を縫うと、その袋に背負うための紐をつけました。

 

「さあ、できたよ」

そういうと、おばあさんは、ドムに傘を背負わせました。

「これで、傘が破れることもないだろう。そんなに気に入ってるならこの傘はあげるよ。」

 そういって、おばあさんはドムを抱きしめました。

 

 それから、雨の日も、晴れの日も、ドムはいつも傘を持ち歩くようになりました。

【小説】ペス

 雨が降る5月の午後、たばこ屋の軒先で、一匹の野良犬が雨宿りをしていました。野良犬は、何日もごはんを食べていなかったので、なにか残りものをもらえないかと思って商店街へやってきたのでした。しかし、ここ何日も雨が降りつづいていたため、客足が遠のき、どのお店もお休みをしています。

「ぐぅ」

と、いうお腹の音を聞きながら、野良犬はたばこ屋の軒先で丸まっていました。

 


 野良犬は、パン屋さんがたまにくれる食パンの耳や、お肉屋さんがたまにくれるコロッケの揚げかすや、喫茶店のマスターがたまにくれる余った野菜のサラダのことを考えていました。

「ぐう」

しかし、考えても考えてもお腹はいっぱいになりません。

 


「ビスケット、いる?」

 野良犬が顔をあげると、男の子がこちらを心配そうに覗き込んでいます。

「お腹がすいているの?」

男の子は続けます。

野良犬は、差し出されたビスケットを、遠慮がちに、しかし全部食べ切ってしまいました。

野良犬が、「ありがとう」と言う前に、

「よかったら、明日また遊んでよ。」

と言い、男の子は、手を振って雨の中を駆けてゆきました。

 


 次の日、たばこ屋の軒先で野良犬が待っていると、男の子は本当にやってきました。ふたりはビスケットを一緒に食べ、フリスビーで遊び、原っぱで寝っ転がりました。

「明日も遊ぼうね。」

男の子はそう言うと、手を振って駆けて行ってしまいました。

 


 それから、来る日も、来る日も、男の子と野良犬は一緒に遊びました。

 そんなある日のことです。ふたりがフリスビーで遊んだあと、一緒に寝っ転がっていると、男の子がおもむろにいいました。

「ねぇ、ペス」

このごろ、男の子は野良犬をそう呼びます。

「よかったら、うちで一緒に暮らそうよ」

 


 野良犬は、しっぽをちぎれんばかりにふって、そこらじゅうをはねまわり、大喜びしました。これからは、雨が降っても寒い思いをしなくてもいいし、お腹がすいてフラフラになることもないでしょう。でも、野良犬にとって、これからずっと男の子と一緒に過ごせる喜びに比べたら、そんなのは本当に些細な喜びに過ぎませんでした。

 


 ふたりは連れ立って男の子の家に帰り、ドアをあけ、「ただいま!」と叫びました。

 ふたりは、男の子のお父さんとお母さんが帰ってくるまで、一緒にテレビを見て、リンゴをかじり、追いかけっこをし、お風呂をプールにして遊びました。

 「キャッキャッキャッ」

ふたりは、これ以上ないほど愉快な気持ちで笑っていました。

 

「これはなあに?」

 そんなときです。お父さんとお母さんが帰ってきました。お父さんとお母さんは、ふたりが散らかしたあとを見て、カンカンに怒っています。

「こっちにきなさい」

 お父さんとお母さんは男の子を叱りつけ、野良犬を捨ててくるように言いました。男の子は困っています。ペスに、出ていってくれ、なんて言えるはずがありません。

 3人が言い争っているのをみて、ペスはとても苦しくなってしまいました。ペスはもうどうしたらいいのかわかりません。ペスは部屋を出ると、玄関に置きっぱなしにしていたフリスビーとビスケットを男の子の部屋に運び、ベッドの上にそっと置き、「ありがとう」とへたくそな字で書き置きをしました。ビスケットを一口齧ると、一度だけそっと部屋を振り返り、そのまま家から出ていってしまいました。

 


 野良犬は、そのままあちこちを旅しました。

「君は誰だい?」

行く先々でそう聞かれるたび、野良犬は

「僕の名前は、ペスです」

と、胸を張って答え、堂々と前を向いて歩いてゆきました。

【小説】真っ黒なスカビオサ

 しろうさぎの村に、いっぴきのくろうさぎが生まれました。「呪いの子じゃ」しろうさぎのおばあさんはそういうと、生まれたばかりのくろうさぎを、村の片隅にある薄暗い小屋の中に閉じ込めるようみなにいいました。

 なので、くろうさぎは、大きくなった今も、小屋の中しか知りません。

 

 くろうさぎはやることがないので、毎晩毎晩お花を摘んできては、髪飾りを作っていました。

ある晩、やぐるま草を一輪添えた、大ぶりな髪飾りを作っていると、小屋の外から「すみません」と小さな声がします。

 くろうさぎはドキリとしました。くろうさぎは、他のうさぎとほとんど話したことがないからです。くろうさぎは作り終えたばかりの髪飾りをそっと置くと、小屋の出入り口に近づきました。

「すみません」

もういちど外から小さな声がします。

「どうしましたか?」

 くろうさぎが扉ごしに返事をすると、

「しろうさぎのネモといいます。村に帰る途中に日が暮れてしまいました。どうか一晩泊めてもらえないでしょうか。」

ネモと名乗るしろうさぎは言います。

 くろうさぎは迷いました。しろうさぎを小屋に入れるとおばあさんうさぎに怒られてしまうかもしれないし、しろうさぎのネモにも迷惑がかかるかもしれません。

「あたりがどんどん暗くなっています。オオカミの声も聞こえます。どうか一晩泊めていただけないでしょうか。」

ネモと名乗るしろうさぎはさらに続けます。

 たしかに、あかりのない小屋の中はだんだんものがよく見えなくなってきていますし、オオカミの遠吠えも聞こえてきます。くろうさぎは、少し困った顔をしながら、扉を開けました。

「ありがとうございます」

そこには、まんまるな目でふわふわの毛をした、とても愛くるしいしろうさぎがいました。

 

 

 

 

 ふたりは、小屋の真ん中に並んで座ると、無言でお互いを見ていました。

「ありがとうございます。わたしはしろうさぎのネモ、あなたは?」

しろうさぎのネモが口を開きました。しかし、ネモのその言葉に、くろうさぎは困ってしまいました。なぜなら、くろうさぎはうまれたときからずっとくろうさぎで、名前なんて考えたこともなかったからです。

くろうさぎが黙っていると、

「あなたってスカビオサの花みたいに真っ黒ね」

とネモが言いました。

「スカビオって呼んでもいい?」

ネモは言いました。

 くろうさぎは、少し嬉しい気持ちがしていましたが、そう伝えるのが恥ずかしくて、やっぱり黙っていました。

 

 

 

 

「ネモは、どうしてネモって名前なの?」

唐突に、くろうさぎは聞きました。

「おかあさんがネモフィラの花が好きで、そこからとったらしいわ」

ネモは答えました。

「スカビオはどうしてこんなところで一人で暮らしているの?」

ネモは聞きました。

 くろうさぎは、自分がくろうさぎとして生まれたこと、そのせいで呪いの子と呼ばれていること、だからひとりで暮らしていることなどをぽつりぽつりと話しました。ネモは、村の仲間から外れているくろうさぎに驚き、村の様子や、自分の家族の話をしてくれました。

 くろうさぎは村の話や普通の暮らしを知らなかったので、ネモの話をとてもわくわくしながら聞いていました。ネモはネモで、くろうさぎが自分の話を楽しそうに聞いてくれるのを、少し嬉しく思っていました。

結局、ふたりは一晩中おしゃべりをしていました。

 

 

 

 

 翌朝、ネモはくろうさぎが焼いたサクサクのマフィンを食べると、ありがとうと言って帰っていきました。ネモが帰ってから、くろうさぎはネモのことを考えていました。

 余ったマフィンをお昼に食べている時も、小屋の前の畑の草むしりをしている時も、夕ごはんの支度をしている間も、ずっとネモのことを考えていました。ネモのことを考えると、なんだか胸のあたりがあたたかくなるような気がしました。夕ご飯の支度を終え、くろうさぎが寝床で横になっていると、「すみません」と、外から声がします。

 くろうさぎは、表にかけだしたいような気持ちでしたが、ネモがびっくりするかもしれないと思い、深呼吸をしてそっとドアを開けました。

「どうしたの?」

くろうさぎが聞くと、

「昨日のお礼を持ってきたの」

ネモがキラキラした瞳で答えます。

 ふたりは、ネモが持ってきたアップルパイを食べながら、ずっとおしゃべりをしていました。

 

 

 

 

 それから、毎晩毎晩、ネモはスカビオのところを訪ね、スカビオは毎晩毎晩素敵な気持ちでそれを待っていました。

 ある晩、ふたりが髪飾りを作りながら過ごしていると、

「わたし、結婚を申し込まれたの」

と、ネモがいいました。

スカビオは、少し心がチクリとしましたが、

「へぇ」

といい、

「結婚するの?」

と、答えました。

「わからないわ」

と、ネモが答えると、

「そっか」

と、スカビオは少し微笑んで、ふたりはまたいつも通りに一緒に過ごしました。

 ネモが帰ったあと、どうして心がチクチクするのかスカビオは考えてみましたが、途中でどうしようもないことだと気づいてやめました。だってスカビオは呪いのくろうさぎなのですから。

 

 

 

 

 それから、ネモは結婚を申し込んでくる村のしろうさぎの話をたまにするようになりました。スカビオは、そのたびにネモがする話をとても楽しそうに聞いていました

「スカビオに話を聞いてもらっていたら、しろうさぎのことが好きになってきたかもしれないな」

ある日、ネモは言いました。

スカビオの心はチクチクしていましたが、しょうがありません。だって、スカビオは呪いのくろうさぎなんですもの。

 

 

 

 

「もしもネモが結婚するなら」

スカビオは言います。

「結婚式の髪飾りは、僕が作りたいな」

 

 

 

それから、ふたりでずっと一緒に結婚式の準備をしていました。

 

 

 

 

 結婚式の朝、スカビオはそわそわして、小屋の中を歩き回っていました。スカビオは、ネモの結婚式を一目みようかとも思ったのですが、ネモの花嫁姿を想像すると、やっぱり心がチクリとするのと、呪いの子が結婚式に近づいたら迷惑だろうな、と考えてやめることにしました。

それでも、スカビオサや、アネモネや、ラナンキュラスや、かすみそうや、そしてネモフィラの花を色とりどりにまとめたブーケを、スカビオは作ってしまいました。

 スカビオがブーケをしばらく見つめていましたが、紐をほどくためにブーケに手を伸ばしました。その瞬間、村の方から鐘の音が聞こえてきました。結婚式がはじまるのです。

その瞬間、スカビオは村の方へかけだしました。最後に、ネモの美しい美しい姿を見たいと思ったからです。

 

 

 

 

 スカビオは、そっと村に忍びこむと、広場に近づき、結婚式の様子を遠くから伺いました。ネモは、知らないしろうさぎの横に座って、とても嬉しそうにニコニコしています。

 それをみた瞬間、スカビオは、いてもたってもいられなくなり、ブーケの紐をほどき、空に向かって投げつけました。

 すると、バラバラになったブーケが風に煽られ、色とりどりの花びらがネモの方へ飛んでいきました。

 結婚式の参列者たちは、

「まぁ綺麗」

「神様が祝福しているのかしら」

と、口々に感動の言葉を漏らしました。

ネモは、ハッとした顔であたりを見渡すと、こちらを見つめるスカビオを見つけました。青くて小さな花を散りばめた髪飾りをつけたネモは、スカビオがこれまでみてきた中で一番美しいネモでした。何かをやり遂げた顔をしたスカビオは、ネモがこれまでみてきた中で一番優しい顔をしたスカビオでした。

 ふたりはしばらく見つめ合うと、優しく微笑み、そっと目線を外しました。

 

 

 

 

 そのまま、スカビオは駆け出しました。誰もいない遠くへ行ってみたかったからです。スカビオは、三日三晩駆け抜けました。そして、どこだかわからない、全然知らない街に辿り着きました。

「あなたはだれですか?」

 スカビオがきょろきょろあたりを眺めていると、茶色のぶちうさぎが声をかけてきました。

「僕の名前は、スカビオです」

 くろうさぎは、胸を張ってそういうと、その場で大きくジャンプをし、色とりどりのうさぎたちの住む街へ入っていきました。